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【第6回】研究① 江戸時代をカタチづくるもの

260年間の泰平の世「徳川の平和」パクス・トクガワ

徳川家康による江戸開府から王政復古までの約260年、日本では江戸幕府の強い統制のもと、革命や大きな内乱がない泰平の世が続きました。この状態を「ローマの平和」に並ぶ「徳川の平和」、パクス・トクガワといったりします。

世界史上でもまれなほど長期間にわたって平和が維持された江戸時代ですが、一方で、強固な身分制のもと、支配階級である武士に対してそれ以外の階層に置かれた者が不当な扱いを受けたり、権威による搾取や貧困から逃れられなかったりと、人々にとって国家による安全と生活の保障はほとんどないと言っていい状態でした。

それでも、徳川が群雄割拠の戦国時代を終わらせ、三百藩とも言われる諸大名家を組織し、全ての日本人を幕府の統制下におく幕藩体制を作り上げたのはまさに日本史の大きな転換点。
次なるターニングポイント・明治維新までの約260年にわたる平和を維持した、強靭かつ繊細なシステムの仕組みに迫ってみたいと思います。

幕藩体制

家康が開府した江戸幕府の制度は、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代にほぼ整いました。将軍と大名が強力な領主権をもって土地と人民とを支配する体制という意味で、幕藩体制と呼んでいます。

幕府の職制

将軍は旗本、御家人という直属の家臣を多数抱え、諸大名をはるかにしのぐ強大な軍事力を持ちました。財力の面でも、天領と呼ばれる将軍直轄地のほか、江戸・京都・大坂・長崎などの重要都市や、佐渡・伊豆などの鉱山を直轄にして貨幣の鋳造権を握っていました。

■ 旗本…1万石未満だが将軍に謁見できる者、約5000人

■ 御家人…将軍に謁見を許されず、約1万7000人

幕府の職制は、大老(必要に応じて置かれた臨時職)、老中・若年寄(老中補佐)、側用人などを上位に、細かく分担されていました。将軍に権力が集中していれば強権を発動して政治を円滑に進めることができますが、凡庸な将軍の元では停滞しかねない。そうした時に起こる弊害を防ぐために職制を分散させていたとも言われます。主な役職には2名以上を任じて月番交代で政務をとらせることで、権力の独占が生じにくくするという狙いもありました。

大名の統制

将軍に臣従した1万石以上の領地を持つものを大名と呼び、大名がその家臣や領国を支配する組織及び領域を藩と呼びました。

大名には「親藩」「譜代」「外様」の別があります。

徳川家の一門「親藩」

徳川氏一門の大名を親藩大名と位置付けますが、その筆頭が初代将軍家康の男系子孫が継ぐ「御三家」、すなわち尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家です。

ついで、紀州徳川家から輩出された8代将軍吉宗以降、「将軍の家族」として徳川姓を与えられた「御三卿」、すなわち田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家があります。この御三卿は領地を持たず、将軍に後継が絶えないよう徳川の血を守るために存在するちょっと特別な役割を持った家です。最後の徳川将軍・慶喜は、将軍継嗣はできないとされる水戸徳川家から一橋徳川家に養子にゆき、15代将軍となりました。

このほか、親藩に準じて扱われる御家門(津山松平家、福井松平家、会津松平家)などがあります。

古くからの徳川の家臣・譜代大名

徳川氏の家臣であったものは、譜代大名とされました。大老格には井伊家・酒井家・土井家・堀田家、老中格には阿部家・稲葉家・大久保家・本多家・牧野家などがあります。老中には原則として5万石前後の譜代大名から登用されました。もしも数十万石クラスの大名が老中として幕政を掌握すると、強大な軍事力を背景にして将軍の座を脅かす存在になりかねません。そのため、老中の禄高に制約を加えることが不文律として規定されたのでした。

関ヶ原前後に臣従した外様大名

将軍を頂点とする幕府の機構では、初代家康との親疎によって序列が定められました。関ヶ原合戦前後に臣従した外様大名は、禄高が多くとも下位に序列され、国政から疎外されました。加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家、長門毛利家などです。

実力のある大名をなるべく江戸から遠ざけ、力を蓄えさせることなく、国政に関わりを持たせないようにしたと見ることもできます。江戸時代を通じて幕府は「御手伝普請」として、江戸城や城下町の建設、京都御所の造営、木曽川・長良川・ 揖斐川の治水工事などの大規模な土木工事を、諸大名に命じて行わせました。もちろん人足や資材にかかるコストは諸大名もち。こうした事業を通じて、諸大名が財を蓄えすぎないよう統制していたのです。

武家諸法度を定めて大名を統制

元和1年(1615年)、幕府は大名の居城を一つに限ることを命じ(一国一城制)、さらに武家諸法度を定めて大名を統制しました。武家諸法度は将軍が変わるたびに少しずつ改められました。参勤交代や大船の建造の禁止など、諸大名が力を蓄えすぎないようにするための規定が定められました。

朝廷や寺社もコントロール

将軍は形式上は天皇によって任命されるものでしたから、幕府は朝廷に対して表向きは敬っていましたが、実際には皇室の領地(禁裏御料)は極めて少なかった上、元和1年(1815年)に制定した禁中並公家諸法度で、天皇や公家の行動に規制を加えました。さらに京都所司代の監視によって、朝廷の政治活動は制限されていくことになります。

寺社に対しては寺社奉行をおき、寺院には宗派ごとに本山・末寺の組織を作らせ、寺院法度を定めて規制しました。さらにキリスト教禁教策の一つとして寺請制度を設け、全ての人々をいずれかの寺の檀家にし、その寺に証明させることとし、一度定めた寺院を変えることは許しませんでした。江戸時代の寺社は、戸籍事務を取り扱い、寺請証文(身分証明書)を発行する役割を担いました。

士農工商

幕藩体制をかため維持していくために、人々には士農工商と呼ばれる身分の別がたてられました。

武士は四民の最上位におかれ、苗字・帯刀の特権を許され、農民や町民の無礼に対して切捨御免が認められることもありました。諸藩においては、武士の間でもさらに上士と下士の別が設けられ、武士でありながら厳しい身分秩序に虐げられた存在も多くありました。

農民は貢租の担当者として重視されましたが、そのために生活の規制も厳しく、統制もがんじがらめにするものでした。

都市に住む職人や商人は社会的には一段と低い身分とされましたが、統制は比較的緩やかで、財力としては武士をしのぐ力を持つものもいました。幕末の志士の活動を支えたのものも、特に西国の商人に多かったりします。

幕末維新期に活躍する人たちは、どんなポジションにいるのか

長きにわたって続いた徳川の幕藩体制のシステムや身分制度について振り返ってきましたが、この基本を押さえることで、幕末維新期の小説作品を読むことがとてもスムーズになると感じています。

というのも、どんな人物の行動原理も、その出自・身分に端を発しているからです。志士はどうして立ち上がったのか、殿様はどうしてこの選択をしたのか…などなど、彼らが長らくおかれてきた地位・アイデンティティがその行動と繋がり、あるいは繋がらずに逡巡したり葛藤したりする、そうした場面が多く登場するので、状況をより理解するためにも、教科書にある基本を読み直してみることが大変役に立つと、感じている今日この頃であります。

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