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幸福、あるいは風呂と布団の話

「幸せとは自分を見つめる、もう一人の自分が、自分に満足であるときに感じる心の状態である。満足のノルマをどこに置くかで、幸せの度合いも左右される」
米原万里『魔女の一ダース』(新潮文庫)

ロシア語同時通訳者の故・米原万里さんが著した本の一節である。だから上昇志向の強い人間はなかなか幸福になりにくい、とも指摘している。満足のノルマが高すぎるゆえに、幸せを感じるハードルも上がってしまうからだ。

米原さんと幸福といえば、私のなかで何年も心に残っているのが『真昼の星空』(中公文庫)に収められたエピソードだ。ロシアの富裕層で娘をもつ母親がある日、米原さんに誕生日を尋ねた。米原さんは4月生まれである。それを聞いた夫人は大いに羨んだ。そして我が子を大いに嘆いた。あなたの誕生石はダイヤモンドなのね。うちの子は縞瑪瑙なの、ダイヤモンドでなくて、なんてかわいそうなんだろうと。それを聞いて米原さんは「人はどんなことにも不幸を発見する天才だ」と考えた、という話である。もしかして私の記憶の中でいろいろなことが都合よく解釈されているかもしれないが許して欲しい。これを書くにあたって魔窟と化した家の本棚を捜索したものの、ついぞ『真昼の星空』を発見することができなかったのだ。

幸福を願う人は多い。でも、米原さんのエッセイから学べるように、知らず知らずのうちに上限が上がっているがゆえに自分は不幸であると感じている人も多いと、占い師として思う。人には欲があり、その欲があるからこそより良い人生を求めていける。だから欲は悪いものではないのだけれど、ノルマ(というのはいささかドライすぎる印象があるけれど)を達成したならばそれもきちんと認識しないと、いつまで経っても幸福感を手にすることはできないのだ。今「ある」ことを喜ばずに、もっともっとと求め続けるだけでは、人はいずれ疲弊する。

といったことを長いつきあいの友人に話していた。あなたはどうなの、と聞いたら彼は即答した。

「そうだなー。あったかい風呂に入ってハーッとなって、あと布団で寝られたらすっげえ幸せ」

うん、それは幸せだわ。

幸福の基準を下げろと言いたいわけではない。高く持っていたっていい。でも、自分が幸せを感じることのベンチマークはしっかりと設定しておくこと、達成したら「もっと」なんて思わず、達成した時点で「幸せだ」と認識すること。そのうえで、より幸せであることを希求してやまないのであれば、人生は幸福感に満ちたものになりやすいのではないだろうか。

友人と駅で手をふって別れて、家に帰ってお風呂に入りハーッとなった。そして大好きな毛布にくるまって、ふかふかのベッドで寝た。風呂と布団、そして友人との楽しかった時間。まどろみながら、私は確かな幸福のなかにいた。

  *   *   *

ちなみに友人は風呂と布団について言及したあと、ものすごく旨いぶりのスモークを食べながら「●●●●のうどんは最悪だ。あれはまずい。本当にまずい。あとあそこはカレーもまずい。何をどうしたらカレーをまずく作れるのか理解できない」と某チェーンについてアツく語った。まるでこの世の終わりのような顔をしていた。そんなにまずいのかよ。逆に好奇心を刺激されるわと言ったら「いやほんとにまずいんだ」と渋い顔で言った。「苦虫を噛み潰したような顔」を久しぶりにこの目で見た。「●●●●●のうどんは想像と違っていたがまあおいしかった」とも言っていたので、うどんに関しては相当に満足のノルマを上げ、ちょっぴり不幸を楽しんでいるのかもしれない。人が持つこういった多様な一面が、私は大好きだ。人生でこういう時間を持ててよかった、と思う。かつて願った幸福のノルマが、満たされていると思う瞬間である。


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