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さよならは6月の雨に

きのうから桜の写真をよく撮っている。

会社員時代、心理学を学びたくて大学に入り直した。心理学概論の授業を受けもってくれたS先生は軽妙なトークで学生をイジり、仲の良くない先生を皮肉り、昼休みには学生を連れてランチに繰り出した。桜吹雪のなか連れ出されたその日を、ずいぶん時間が経った今でもよく覚えている。自分はいい加減だと言いつつ、レジュメは微に入り細に入り、とても学ぶところが多かった。当時、編集者的な仕事をしていた私はすぐにその人柄に惹かれ、先生に原稿を依頼した。しかしである。締め切りは見事に破られ、取材を試みれば酒を飲まされてうやむやにされた。催促の電話はシカトされ、私は大変胃の痛い思いをした。その後なんとか連絡がとれたので、文句の限りを言ってやろうと出向いた。するとちょっと元気のない先生がいた。あまり体が丈夫なほうではなく、入院していたのだと弱々しく微笑んだ。

独立してすぐの頃、先生に仕事の話があると呼び出された。ランチを食べながらということだったので出向いてみると、いっこうに話が始まらない。まったく仕事の話をしないまま「気分転換をしよう」と護国寺に連れて行かれた。転換もくそも気分が始まってねえわと思い、ブスっとおみくじを引いていたら「占い師もおみくじを引くのか」と爆笑されて写真を撮られた。うららかに晴れた春の午後で空気はあたたかく、ものすごい青空が広がっていた。「がんばんなさいよ、あなたならできるから」と、先生は言った。結局仕事の話は出なかった。そうか、先生はフリーランスになった私を励ましてくれようとしていたのかと、後になって思った。

インタビューを申し込んだら吉祥寺に呼び出されたこともある。井の頭公園できらきら光る湖面に浮かぶスワンボートを眺め、エスニックのカフェでごはんを食べた。年末も押し迫った、よく晴れた冬の日だった。「6月になったら、雨の平日の昼間にここでお酒を飲みなさいよ」と先生が言うので、なぜと聞いた。「雨に濡れると、緑がほんとうに美しいから。土の香りが鮮烈だから。フリーランスになる醍醐味は、こういうところにあるのだからね」と、先生は言った。

駅前のカフェで議論しながらワッフルを食べたこともあった。弱々しいメールが来たので何かと思ったら入院したというので、駆けつけたこともあった。年末には忙しいからイヤだと言っているのに「近くまで来たから」と言われ、無理やり近所のカフェに呼び出された。彼氏かよ。無理めな仕事を持ちかけられてケンカしたあと「Facebookにアップするから一緒に写真を撮ろうよ」と言われたが、先生のスマホは容量がいっぱいで何をしても撮れなかった。また来年撮りましょうよ。そう言ってコーヒーを飲み干して、駅まで送っていった。

それが先生に会った、最後になった。

満開まであとすこし。これから桜が一番きれいだというときに行っちゃうなんて、先生ったらほんと野暮だなあ。心の中でそんな憎まれ口を叩きながら、今年の桜を目に焼き付ける。写真もたくさん撮った。先生が見たかった分まで、先生が楽しみたかった分まで。そんなことをしても先生が「僕とあなたが見ているものは、違うんだからね。ひとはわかりあえないのだからね」と、皮肉っぽい笑顔を見せるのは知ってる。でもじっくり見た。先生はどうでもいいトークの合間にときどき言ったから。「あなたは辛い思いを抱えた人と向き合う仕事なのだから、たくさんのきれいなものを見たほうがいい。それがきっと、その人たちの力になるから」と。

今年の桜は特別悲しく見えるけれど、これもいつか誰かの力にできるのかな。ねえ先生、と問いかけても桜の花は答えてくれない。でも、明日も見よう。散ってしまったら今度は新緑を見よう。そして6月に雨がふったら、あのカフェに行って昼間からお酒をのむのだ。先生が見たかった分まで。先生が楽しみたかった分まで。私に教えてくれようとしたものをちゃんと受け取れるように。今からカレンダーに書いておくのだ。6月の雨の平日は、中央線に揺られて吉祥寺に行く。それまではさよならなんて絶対にしないんだからねと、誰に誓うともなく誓ってみる。

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