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「生きているということは、意思決定の繰り返し」

先日読んでいた本に、「生きているということは、意思決定の繰り返し」なのだと書かれていて。
ほんとにそうだなぁと思うし、その一文は本題の序文のようなものだったけどもすごく印象に残った。

でもそのとおりだと思いつつ、いつもいつも、すべての自分の言動が、何をするかもしないかもどんな風にするかも、すべてが自分の意図なのだと意識しながらすごすのって難しいとも思う。

頭では、すべての言動は自分が決めたものなのだとわかっているのだけど、決めているって意識もないままなんとなくやっていたり、深く考えないで行動していたりしてしまっている。

*

すべてが意思決定だ、ということをいつも意識していられる人がどれくらいいるのだろうか?

そもそも、これは自分の意思だ、と自覚して動ける人がどれくらいいるのだろう?

自分の意思でやっていると思って、ほんとにそれが本心からの自分の思いであることがどれだけあるのだろう?

意思ってなんなのだ?
決めるってどうすることなのだ?
って、思う。

あまり深く考えないままやっていて、実際どうなのかよくわかっていないと思う。
なんとなく曖昧に、自分で考えた気分、決めた気分になっているのではないか。


*

自分で考えた自分の意思だと思っても、それは自分で考えているのだろうか。

自分で考えているようで、誰かの受け売りだったり一般論だったりとか。
自分の頭で考えているのではなく、知っている情報でよさそうなものを自分の意見にしているだけではないか。

でもなんでもゼロから考えられるわけではなくて、考えるために情報は必要だし一般論やほかの意見を参考にもする。
情報をもとに自分で改めて考えてみての結論であれば「自分の意思」と言えると思う。情報を知って納得したりいいなと思って採用するのも「自分の意思」と言えそうだ。
だったら、情報を知ってなんとなく取り入れている、こういうものだと思って受け入れているのは自分の意思なのかどうか。意図してそうしている、自覚があるなら「意思」のような気もするし、無意識無自覚なら意思でない気もする。
逆に、情報など知っても改めて考えるということなく、直感で選ぶというのはどうなのか。個人的には、自分の感覚つかって情報選んでいると思うので「意思」だと思うのだけど、たとえば直感で選んでいると言いつつ無意識にまわりに合わせた選択をしているというような、自分の感覚でない場合もあるようにも思う。

意図したもの意識しているものや、自分の思考や感覚を使っていての結論は「意思」のような気がする。
のだけど、では無自覚無意識の中に「意思」はないのか?というと、それまでの習慣からの無意識には習慣をつくってきたなんらかの意図がある気がするし、無自覚無意識で行動したり選択したりしていることそのものがその人の意思からつくられているようにも思う。

*

自分の言動で自分がつくられるし、自分のまわりの世界もつくられていくと思っている。
自分が何をするかしないか、何を言うか言わないか、どういう風にするのか言うのか。そういうことひとつひとつの積み重ねとつながりが「自分」になる。
だから、自分の言動が自分の意思だし、そのことについて自覚的でありたい。

そうは言っても、なんとなくやっていることも深く考えずにやっていることも多くて、なので、何が自分の意思なのだろうかというのをよく意識しておきたいなと思うのだ。



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