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刺さった言葉を抜き取るには。

物理的な痛みより、言葉で刺された痛みの方が深くてきついなぁと思う。
私の場合は、物理的な痛みなら、その痛みがなくなればいったんその傷が完了になる感じがあるけど、言葉の痛みは刺さったまま抜けなくて、ふと思い出してはダメージをくらう。思い出して感情ごとひきずられてしばらく何もできなくなる。
(人によるだろうし、暴力などを擁護する気はまったくないけど。)

物理的な痛みは、痛さとかあざとかでわかりやすくて治癒しやすくて治せたようになりやすいけど(でもその奥にさらに傷やストレスが潜んではいると思う)、言葉は見えないし感情はごまかせるし、手当てしづらい気がする。

多分、それだけでなくて、私が自分で傷を深くするのが悪いのだけど。

何年かずっと、聞きたくないこと言われたくないことを、聞いて受け入れて、いやなのにそのままにして諦めていた。

自分に向けての言葉だったら、とりあえず受け取っていたし。
自分に向けての言葉でなくても、きっといつか、もしくは口にしないだけで受ける言葉としてちくちくとたまっていったし。
誰に向けてであれ聞きたくない言葉が耳の中をとおるのを、無になり慣れていった。
刺さった言葉を抜くどころか、より深く刺しているようなものだった。

違うって言わなくてそのまま聞いて受け入れて、そのとおりだと認めて、復唱して、どうせ私はって言って、自分でじわじわとそれらを自分の中に染み込ませていったのだ。
抵抗するよりも、認めてそのとおりにした方が楽だと思って。

反論したり抵抗したりしていれば、言葉を受け取らずに拒否していれば、それらは私に同化せずに宙に浮いたかもしれないのに。

受け入れたくなくても、とりあえず受け入れる形をとったことで、その言葉どおりの自分にしてしまう。
言葉の力の強さだし怖さだなと思う。
その力を、受け入れないために使えばよかったのだ。
そうしたら、少なくとも、刺さってはいても染み込む前に対応できたんじゃないかと思う。

私はついいつも、そういうしんどさを、逃げることで乗り切ろうとする。
安心できるところへ、癒されるところへ、自分を傷つける言葉が発生しなさそうなところへ。

これに限らず、これまでの、過去のいやな記憶とか苦い体験とかについて、私は結構気軽に開示していると思うけど、全部、自分の中で整理して出してもいい形に整えて、自分の感情を揺さぶらないようにして、話しやすい範囲で話せる形でだけ出している。
そういう風にして、ちゃんと消化しきらないで、消化した風にして、しんどいのから逃げる。

しんどいときのことを、わざわざまじめに思い出してつらいとか痛いとか苦しいとか怒りとか悲しみとかトレースしたくないし、そうやって過去に呑み込まれて翻弄されるのも悔しいし。
だからそっとしまっておいて、でもしまって隠してるだけだから、予定外にふと出てきて焦るのだろう。
受け入れるだけ受け入れておいて、ちゃんと処理していないから。

きっと、一度ちゃんと、そのときの傷をちゃんと見ないとだめなんだと思う。
聞きながら感情に蓋をして無になっていて、ちゃんとしんどさとか痛みとか悔しさとか怒りとかを感じきれてなく出しきれてないのだと思う。

思い出すだけでしんどいのに、そんなのいっこいっこやるなんていやだ!としか思えないけど、ちゃんと痛みきって回復するプロセスが必要なんだろうなと思う。

そしてそのプロセスって、すごく傷ついたとかそういうときだけでなくて、ほんとは日々の小さなできごとでも、ひとつひとつやることなんだろうな。

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