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Vol.4【アンジャッシュ渡部建の半強制謝罪会見に見る自粛警察という風潮の危惧】

12月3日19時頃より、お笑いコンビ【アンジャッシュ】の渡部建による不倫騒動に対する記者会見が開かれました。今回の記者会見は年末特番【ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!笑ってはいけない大貧民GoToラスベガス24時!】に渡部さんが極秘出演する、という内容を週刊誌がすっぱ抜き、『なぜ謝罪記者会見も開いていないのに復帰するんだ、筋が通らない』というような声を受け、半ば強制的に行われたものでした。12月3日という所謂M-1グランプリ決勝進出者発表の次の日を選択したのは、やはり彼の所属事務所である人力舎による深い配慮があったのではないかと思います。

全部で1時間39分にも及ぶ彼の謝罪会見は、マスコミ曰く【フルボッコ】と記されていました(日刊スポーツのLINE記事より)が、その見出しに強烈な違和感を与えられたのは私だけでしょうか。フルボッコにしているのは自分たちマスコミ側です。フルボッコという表現はされた側か客観的に見ている第三者が使うのが通例と認識していましたので、所謂【フルボッコにした】側がこの表現を使うのは、『俺があいつをボコボコにしてやったぜ』と自画自賛の武勇伝を振りかざす、ジャイアニズム溢れる自称正義の味方位のものではないでしょうかね。

確かに渡部さんは色々と手順を違えたのは否めません。2020年6月9日にいきなり活動の自粛を発表し、その日一日はその理由探しに世間が追われ、やがて文春砲で多目的トイレ不倫が報じられるとその対応の稚拙さを攻撃され続けてきました。相方の児嶋一哉さんと妻の佐々木希さんはその事後処理に手を焼いているにも拘らず、本人からは何の弁も無い。世間とマスコミはこぞって渡部さんを叩きました。

今回の一件で1番残念なのは、渡部さんが【芸人としての対応】を放棄してしまったことです。私自身アンジャッシュというコンビのネタはコントの最高峰にあるくらい大好きですが、【好感度タレントとしての渡部】には何の感情も抱いていませんでした。ですから今回の一件も正直どうでも良かった、寧ろなぜそこまで彼のプライベートな部分で追い込もうとしているのか不思議なくらいでした。ですがその結果、好感度タレントとしての彼に付随している【お笑いコンビ・アンジャッシュのツッコミ】まで葬り去られようとしている事には相当な憤りを感じています。ただその原因は渡部さん自身の芸人としての矜持が無かった事にあります。その点が本当に私をがガッカリさせました。

蒸し返す様で恐縮ですが、千鳥の大悟や千原せいじは2回も不倫を報じられていますし、6代目三遊亭円楽は【笑点】でお茶の間の人気者ですし、桂文枝に至っては新婚さんを招いてトークする番組を持ちながら不倫した存在です。ですが彼らは未だに一線級で活躍中で、もはや誰も気に留めてないのかという気さえします。渡部さんとの差が凄すぎます。最初は事務所の力の違いかとも思いましたが、人力舎も今や関東お笑い界の雄。少なからず忖度しないという事もないでしょう。つまりはここに渡部さんが自分自身を【芸人】と認めず、【グルメと甲子園が好きな好感度タレント】と思っていたからこそのマスコミ対応の差が生まれたのではないかと思います。磯野貴理子さんが自分を女優と言って憚らないのに似ていますね(貴理子さんは元々チャイルズというお笑い系アイドル出身です)。

このような矛盾点の根本は【世間が許さない】という謎の正義感を振りかざしたマスコミの対応にあります。ここは言い切ります。何故なら連中は【報道しない自由】という適当な理論を振りかざし、自分達の格好の玩具を取捨選択しているに過ぎないとしか思えません。ワイドショーのコメンテーターたちも一部違和感を感じている人達が出てきました。この連中にそこまで一人の人生を無碍にする権利はあるのか。権力者が権力の使い方を間違えれば待っているのは革命です。事実マスコミの力はYoutubeやTwitterに取って代わられようとしています。栄枯盛衰、盛者必衰の理を体現化しています。

ピエール瀧の頃から、『作品に罪は無い』という至極真っ当な意見が聞こえてきました。正直な話、陰で違法な手段を使って作られたものだとしても、それを【素晴らしい】と判断した自分の気持ちに嘘をつきたくはありません。槇原敬之も伊勢谷友介も押尾学も、関わった作品を否定せず公開や再放送に踏み切れる風潮が高まってきました。これは個人的に【世間の声を振りかざすマスコミという偽りの権力者に対し、別の世間の声が革命を起こしつつある】と好意的に見ています。今挙げた方々は逮捕・起訴を経験し日本の法で裁かれた人達です。況や渡部さんをや、です。決して逮捕された訳でも起訴された訳でもありません。好感度タレントとしてはスポンサーに迷惑を掛けました。それは事実ですし、会見の内容を踏まえればその負の遺産は彼が背負ったようです。好感度タレントとして勝ち取ったCMであれば、それは当然のことです。岡村隆史が以前【嫌なら見るな】と世間に向けて言い放ち大批判を受けたことがありますが、批判も何も事実です。好感度タレントとしての需要が無ければただ消えゆくのみです。

ですがお笑い芸人の渡部建をも葬りかねない世間の声が果たしてどこまで正義という建前の剣を振るう事が許されるのか、今回の件で甚だ疑問に思います。渡部さんの【アンジャッシュのツッコミとしての活動】まで制限する必要があるのでしょうか?勿論彼自身がそれを封印していた側面もあります。児嶋さん側の考えも何よりも尊重されて然るべきです。しかし全てはあくまで当事者たちの問題であって、第三者がボロ雑巾のように叩いてその動きを制限するのは違うでしょう。何をおいてもまず謝罪、詫びろ、詫びろ、詫びろ!の伊佐山大合唱。渡部さんが詫びるべき相手は本当に世間なのでしょうか?彼が多目的トイレでどうこうして、確かに不快感は与えたかも知れませんが、それ以上でもそれ以下でもないはずです。見たくなければ見なきゃいいだけです。自粛警察という表現は決してコロナでいきなり湧いて出た存在ではありません。それを創り上げて育ててしまった世間とマスコミこそが、今一度自分自身に投影して考えるべきフェーズに突入してもいいような気がします。

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