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旅の第六感


個人的に山登りが好きだからなのかもしれないが、私はよく旅を「山」と重ねてみることが多い。近くの日帰り登山であろうが、ヒマラヤ山脈であろうが、荷物を背負って自己責任で進むという点で、登山と旅はよく似ている。

だから登山家のドキュメントはとても参考になる。読むのも見るのも大好きだ。その中でもエベレストなどの7サミッツで、山頂から100メートル、200メートル手前にしてやむなく下山した、などという話を聞くと、もう、登頂したときよりもグッときてしまうのは私だけだろうか? 

先ほどまで晴れてて山頂は目前なのに、これだけの人数をかけてチームで助け合いながら来たのに、高度順応を合わせると何ヶ月もかかったのに、それはそれは莫大な費用がかかったのに、その資金集めに何十ものスポンサー会社を巡ったのに、番組プロデューサーにがっかりされるのに(撮影隊が同行しているので)……目前で、退避。

そんなたくさんの想い、つまり渦巻く欲望や今までの苦労をすべて封印して登山を断念する。くーっ‼︎ それができるのは、プロ中のプロ! 当の本人たちは、そんな状況たまったもんじゃないんでしょうけど、旅も山も肝要なのはそこなのである。
「登山家の資質は危険を冒す勇気ではなく、撤退を恐れない勇気である」
と言われている通り、つまりそういうことなのだ。まぁ、ここで身悶えしている私は、単にMっ気が強いだけなのかもしれませんが。

たとえば以前、「何とも言えない嫌な予感がして、(山頂目前で)下山した」と野口健さんがテレビで口にしたのを覚えている。「その後、大きな雪崩が起きて、多くの人が雪に飲まれた」と。
第六感とでもいうのであろうか、私も「直感」だとか「勘」だとか表現することが多いのだが、それをとても大事にしていきたいな、と常に思っている。

実際に旅をしていて思う。
この店はヤバそうだ。この通りだけ空気が違う。この女の子はとっても純朴そうだけれど、何かおかしい。この人の話を信じてはダメだ。何か変だ。今は説明できないけれど、違和感がある。何かがひっかかる。胸がモヤモヤする。
サバイバーはこういった「勘」を大事にしているのではないか。この感覚は損得勘定抜きで、何よりも最優先していいと思うのだ。

勘、第六感、直感といってみたけれど、オカルト的な話ではなく。それは死んだおじいちゃんが私を後ろから羽交締めにして「そっちはダメじゃ。行くのはやめるんじゃ〜!」と止めているとか、守護霊が耳元で囁いているとか、妖精が後ろ髪を引っ張っているとか、そういうことではない(あ、もしおじいちゃんがバリバリ助けてくれていたなら、否定してゴメンで、かつサンキューなんだけど)。

多分、登山家たちは、常に「五感」を研ぎ澄ましているのではないか、と思うのだ。
何だかわからない小さな音、あるいは雪が溶け出した音、足の裏の雪質、肌に触れる湿った空気、風の匂い、雲の動き、雪に当たる光の反射。どれも雪崩が起きる前の、微かな、本当に微かな兆しなのかもしれない。何かが変だ。まだはっきりと判断できる前の、言葉になる前の、小さな小さな前兆。経験を重ね、さらに研ぎ澄まされた感覚の先にあるから気が付くもの。そういった「五感」の先にあるものが、いわゆる「第六感」なのではないかと私は勝手に思っている。

旅というのはそういった感覚を磨くプロセスだと思っている。
前のnoteで、「不可抗力の事故、テロや交通事故、水難事故は防ぎようもないが、『何か説明のできない嫌な予感がしたら引き返すのが賢さ』」と言ったのは、このためだ。
ダイビングツアーを申し込む際に何か嫌な予感がしたので引き返した。後でよくよく思い返してみるとスタッフがテキトーだった。そんな店は命を繋ぐ、大事なダイビング器具の手入れもテキトーかもしれない。
店に入って嫌な予感がしたので、すぐに外へ出た。実は店員と客ぐるみで悪巧みをしていた。思い返せば店内のみんなの目配せをどこかで感じていたのかもしれない。
あるいはバスで嫌な予感がして降りた。そのバスは後に、横転した。原因は疲弊したドライバーの居眠り運転。疲れて荒れた空気が漂っていたのに気が付いたのかもしれない。
……などなど。のんびりと嫌な予感の理由や原因を探っているうちに、事故は起こるかもしれないのだ。言語化して納得する前に、だたちに席を外す勇気も必要だと思う。
私もどうも何かが引っかかると思い撤退した挙句に、被害に遭わずに済んだことが何度となくある。反対に、何も起こらなかったこともある。でも、それでいいのだ。

このマガジンの冒頭で「好き」に説明はいらないといったが、「違和感」にもいちいち説明をつけなくていい。もっと直感を信じて、嫌だと思ったら嫌。好きだと思ったら好きでフットワークよく進むのがコツだと思う。
旅で、野生を取り戻しにいこうとも言った。平和な日本と違う。野生のウサギが耳をピンと立てて辺りを伺っているように、五感を研ぎすましながら進もう。


ここで私が大学生のときだから、ずいぶんと昔。20年以上前のことを話そうと思う。
彼はとても穏やかな、のんびりとした感じの好青年だった。私と仲が良かった友人の、これまた友だちだった。私の友人はバンドを組んでいたので、彼女のライブだったり大学祭でだったりで、時折、その彼を見かけた。ライブが始まるまで、廊下で私が先日してきた春休みのアジア旅行のことなどを話したと思う。

その数ヶ月後、彼が初めて一人旅に出たとき、彼は安宿で、自分と同じような旅人と親しくなった。きっといつもの曇りのない笑顔で接し、東京から来たこと、学生であることなどを告げ、旅先のひとときの友だちになろうとしたのだと思う。
相手も笑顔で自分のルーツを明かし、お近づきのしるしにとジュースを彼に手渡した。彼はきっと「サンキュー」と明るく返して、それを飲み干した。そしてしばらくして眠気を感じたあとは、再び目を開けることはなかった。

私の友人がたまたま日本で見ていた、ニュースのテレビ画面に彼の名前が流れたのだった。タイのバンコクで起こった、日本人殺人事件の被害者として。
どうかどうか同姓同名であってほしいという願いも虚しく「おそらく本人だと思います」という大使館職員の電話を通しての返答だった。遺体はバンコクの寺院で焼かれてから、遺骨になって帰国した。犯人はのちに捕まったという話も、虚しい気持ちで聞いた。

今でも起こりそうな簡単な手口だから、どうか心に留めておいてほしい。
そのジュースというのは乳製飲料で、死に至るほどの睡眠薬が入っていた。犯人に明確な殺意があったとは思えず、その証拠に飲ませた目的は単なる物取りだった。多分、薬剤の知識も少なく、慎重を期すために多めに睡眠薬を入れたのではないかと思う。
さらに彼が飲んだ乳製飲料の容器には、これはヤクルトをイメージして欲しいのだが、アルミホイルのフタがされていた。犯人は注射器で薬物を注入させたのち、注射針の穴を爪でこすって元に戻した。一見、未開封の乳製飲料。だから彼も疑わなかったのだろう。

異国の人とも楽しく交流し、明日の旅を楽しみにしながら、この世を苦しむことなく去っていったのがせめてもの救いだ。しかし、自分の最後さえ気づかずに死んだ彼には、これからやりたいことはたくさん、それはたくさんあっただろう!

旅を始めたばかりの私にとって、これは本当に衝撃的な出来事で、友だちと一晩かけて泣いた。息子を失ったご両親や友人たちの絶句と悲しみを身をもって知った。旅をする自分にとって、これは自分に降りかかってもおかしくないことだと心底思った。旅はすべて自己責任と軽々しく言ってはいるが、その死が周囲に与える衝撃をこの目で見たのだった。

一つ前の旅のnoteを書く際、海外で170万人に1人の日本人が命を落としているとわかって、愕然とした。170万人……。もちろん、20年前の渡航者数と死者数はわからないので、これはぜんぜん当てはまる数字ではない。だけれども、なんという確率を彼は引き当ててしまったのだろうと。
彼の死は、このマガジンを書こうとした動機の一つでもある。

それでも旅を続けた私には、あの日から習慣になっていることがある。今でも海外に旅に出るとき、私は彼の魂に小さく語りかけてる。「行ってくるね。気をつけるね」と。そして、まさに命がけで気を配ったし、旅行中、どうも気が緩んでいるときは彼を思い出した。
もう彼は私の旅の守り神だ。無事旅が終わると、いつも彼の魂に語りかけている。
そして今日まで無事に旅できていることを深く感謝している。

(あ、後ろで羽交い締めしてくれている、おじいちゃんにも感謝しています)



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️