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サバイバル


父親の書棚にあったサバイバル本をいくつか読み漁っていた、少女期。
食べられる雑草や花々、海で漂流したときの対策、蛇やケモノ対策、防寒の知恵、おしっこをどう漉して飲むのか、応急処置の仕方などなど……。
小学生ながらに「非常時にはこんな本、運よく手元にはないかも」と想定し、本を丸暗記した覚えがある(今でもかなり覚えている)。

小学校低学年のごっこ遊びも「爆弾が飛んでくるので、シェルターの中に緊急避難ごっこ」が大好きで、お友達と何度も繰り返した。シェルターと見立てる押入れに、当座必要なもの(食料とか懐中電灯など思いつくものいろいろ)をかき集める。「もう時間がない! もうすぐ飛んでくるから急いでぇぇ!!」などと叫んでいたのを思い出す。
あるいは、段ボールのイカダで「漂流ごっこ」。「サメが来たよ!」などといって、ビニールパットで床を叩いたりしていた。あるいは、椅子とぬいぐるみを何個も並べて「犬ぞりで安住の地を探す旅ごっこ」。もちろん、当座必要なものを犬ぞりやヨットにどんどん……(以下同)。
世間はバブル絶頂のイケイケどんどんの時代だったようだが、幼い私の脳内は一人世紀末だったようだ。
というか、思い出してみてもちょっと育てられ方に疑問を持つほどの自分の危機意識(あ、ちゃんと育ててもらいましたか。すみません)。「この平和、いつまで続くかわからない」という気持ちは、幼い頃からあったらしい。漫画や映画の影響ですかね……。

とにかく私の人生、共通するテーマは「どこでもやっていける自信が欲しい」ということに尽きると思う。
だから高校を卒業してからは、世界中、あえて旅行にあまりメジャーじゃない地域や、自然の奥地などをどんどんと一人で突き進んでいった気がする。そしていろんな国々や砂漠、ジャングルで「なんだ、ここでもやっていけそうじゃないの」という安心感と自信を得て帰ってくるのだ。

キャンプにはまったのも、そうなのかもしれない。まぁ、今の道具はかなり進化しているけれども、キャンプ道具が何もない場所に放り出されていても、ナイフ的なものさえあれば上等、どういう段取りで、生きるために何からやっていけばいいのかのイメージはできる。
釣りも我が家の男子軍団ほど上手くはないが、ある程度勉強になった。


そしていよいよ、我が家は狩猟時代へ……。
先日、猟友会の主催するジビエパーティーにお邪魔した。
なんだか超ワイルドなおじさま達率いる、硝煙臭いファンキーな集団かと思いきや(嘘デス。そこまでは思ってません)、みなさん高齢化が目立つけれども、意外や意外の素敵なシルバーヘアーのジェントルメン……。
いろいろ話を聞いて合点した。猟友会に入る以前に、銃刀法の審査がとてつもなく厳しくて、ちょっと危なっかそうな人たちは警察から認可が下りないのだそう。
なんと友だちや近所の人、親戚、会社の上司たちに警察が聞き込み調査をして「人となり」を調べられる。もちろん既往歴はじめ、いろいろ書類を提出し、本人も取調室に於ける「リアル取り調べ」あり! そこでは、いろいろ嫌なことを言われたり、挑発されたりして「キレやすさ」もチェックされる。普段のファッションもチェック(どんなん?)。そして申請書類のまさかの放置……。それをそわそわして、何度も警察に「まだですか?」などと電話してもNGという噂。落ち着き度、せっかち度も見るのだろうか……(単に警察が忙しくて手が回らないのでは……?)。
なるほどね〜。確かに、銃の許可をした人が乱射事件など起こしたら、まず警察が「なぜ認可した」と叩かれるものね。そんな猟銃事件は、日本でなかなか聞かないから、許可を与えるのにも徹底しているのだと納得(注意:都道府県によって厳しさは違うらしい)。
審査に落ちると5年間は、再申請できず、許可が降りても、しばらく銃を使っていないと警察によりお取り上げがあるらしい。き、厳しい……!

鳥を捌くのは経験済みだが、鹿だのイノシシなどは未経験。
なぜやってみたいと思うのかは、もうリトル・イマイズミに聞いて欲しい。
おそらく。やはりここでも「生きる」手応えが欲しいのであろう。
あらゆることが分業になってしまって、白いトレーに置かれた肉しか食べていない現在。持ち前の好奇心で、きちんと最初から口に入るまでの過程をかみしめたいのだろうと、後付けで思う。

我が家が山を買って家を建てたいという夢を持っているのもそう。
分業でバラバラになってしまった「生きる」という行為を、一つの形につなぎあわせて、できる限り自分の手で生きてみたい。私の場合、都会でどんどん希薄になっていく生きる実感というものは、分業に原因があるのではと思っているのだ。
例えば、車を製造するにしたって、自分がずっとブレーキの取っ手ばかりを作って眺めていても、その車の走りのダイナミズムと開発、販売の苦労はわからないように。トレーの肉をいくら美味しく調理しても、命の尊さやその厳しさ、ありがたみや口にするまでの苦労は、なかなかわからないと思うんだよね。

私たち夫婦の余生の目標は、育てる、あるいは獲る、食べる、排泄して、また育てる、という小さいけれども、それはそれは完璧な循環にただただ身を置きたいのだと思う。自らがすっぽり入ったビオトープを、その手で作ってみたいのだ。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️