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「自己責任」とは、なんぞなもし


安田純平さんの人質事件で「自己責任」という言葉が踊っている。
私も辺境を一人で旅をしていた経験上、「自己責任」という言葉にはそれなりに向き合ってきたつもりなので、ここで思ったことを書いてみた。


この熱い「安田さんバッシング」を紐解いてみると実に様々なのだが。それらの多くは「そもそも人質になりそうな可能性のある場所に入り込んだりして、他人に迷惑をかけた」という怒りであったり、「政府が事前に『行くな』と通達していたのにも関わらず、行ってやらかした」ことへの憤り、「(今回はカタールが身代金を支払ったのかもしれないが、)本来ならば人質交渉には税金が投入されるはずで、それらは私たちの血税であるからして、納税者として一言文句をいう筋合いはある」という思いが強いのだろう。

ところで「自己責任」とは、何だろう。
飛び交う言葉を拾い集めると、要するに「自業自得」ということのようだし、つまりは「自分で起こした行動については、自分で尻拭いしてよね」ということのようだ。「危険を承知で好きでやったんだから、他人の手は借りないでちょうだい」と聞こえる。

でもそうバッシングしている人たちは、本当に「自己責任」について考えたことはあるのだろうか。
自分は一生誰にも迷惑をかけずに己の責任内で物事を解決できると、心の底から思っているのだろうか。


たとえば、パン屋さんだったとしよう。毎日責任を持って食材を管理して、火の元、戸締りをきちんとしているつもり。もしものために保険もかけている。しかし、何らかのきっかけで火事を起こしてしまった。当然、救急車がやってくる。消防車がやってくる。それらの車は税金で飛んでくる。
「自己責任」という名の下に「自分の不始末はすべてご自分で」という世の中だったら、税金には一切ご厄介にはならずに、パン屋さんは自分で火消しをするべきなのだろうか。焼死しても「自業自得」なのだろうか。

たとえば、勝手に好きで結婚したとしよう。でも一方的にどーしても、この女と別れたくなった。
「自分の責任でくっついたのだから、別れるときは、その尻拭いは自分でやってよね!」という世の中だったら、もっと揉める。理想は二人の話し合いで離婚すべきなのだが、そうすんなり話して収まれば古今東西、色恋沙汰など起きない。さらにお金や子どもの問題もある。カイヤは徹底的に戦うし、麻世は別れたいのである。このまま二人だけで話し合っていれば、最後は刺し違えるかもしれない。しかも、元プロレスラーのカイヤに分がありそうな気もする……。
だから裁判所。もちろん弁護士などの裁判費用はかかるけれども、裁判所の職員は公務員だし、税金で運営されている。


違うのだ。紛争地帯のようにリスクが高い事案を言っている。ハイリスクを承知で行う案件なのだ、となるならば。

たとえば自動車。あれは殺傷能力のある鉄の塊だ。ある意味危険。だから、みんな責任を持って運転する。事前に運転能力を高めるべく訓練し、交通ルールも学ぶ。保険にも入る。けれども、ときにどうしても事故は起こる。
「そもそも事故の起こりそうな可能性のある乗り物なのに、危険を承知で運転したのだから他人の手を借りるな」とは言われないし、その事故が起きたとき、周囲に助けてもらわないわけにはいかない。これら「警察」「消防」「救命」は税金で賄われており、飲酒や薬物でも摂っていない限り「自業自得」とは言われない。誰でも失敗はあるからだ。

山に入って遭難すれば救助が入る。海に入って遭難すれば救助が入る。登山を楽しんで遭難した人に「もう二度と山には入るな」という怒号を聞いたことはないし、救助されたクルーザーの乗組員に「好きでやっているんだから、他人に頼るな」とは言われない。これらはリスクと背中合わせであるにも関わらずだ。
スポーツもケガをすれば、病院の助けが入り健康保険が適用される。それは税金から賄われる。こういった税金が投入されそうな場面の、責任は問われることはないのか。子どもがやっているサッカーなんて、これは格闘技だね、と思うのだが。
でもあくまでもこれらは趣味なのである。好きでやっている。でも、ときには命がけの遊びなのである。



安田さんは大金だから怒りが湧くのか。億単位だから?
でも、何万人もの尊い命が助かるかもしれない。ベトナム戦争のときのように、戦争が終わるかもしれないのだ。決して遊びでやっているわけではない。
反対に、我が国日本がもし周辺諸国と戦争状態に入り、核爆弾が落とされたり、空爆にあったとしたら。もしまた自然災害で原子力発電所が爆発したら。
自分の街が汚染され、破壊され、放置されたままでいいのか。決死のリポートが来なくても仕方がないのか。治安が、空爆が、放射能が収まるまで誰にも存在が知られないでも耐えうるのか。知られなければ救助も募金も物資も集まらないのに。
ひょっとすると日本は永遠にこのままいつまでも平和だと思っているのではあるまいか。自国の、あるいは他国のジャーナリズムに助けてもらうことは永遠にないと思っているのだろうか。

もちろん身代金は人質ビジネスを助長する、という意見はあるだろう。助長するかもしれない。そのお金で武器が調達されるかもしれない。
それでもだ。戦争にはもっともっとそんなもんじゃない、何百倍も何万倍ものお金がかかり、尊い命がアリのように吹っ飛ばされる。
ジャーナリズムでその紛争を止める、罪のない人々に援助物資が届く、その影響力を考えれば。人質の数億円なんて、大事の前の小事。鼻くそみたいな数字だと私は思うのだが、どうだろうか。

もし仮に税金の行く末に怒りを覚えるのならば。
文春砲によれば安倍晋三クンは40年来のお友達の加計クンに440億円の血税を横流ししたというわけだから、そっちにもっとエネルギーを注いでもいいとも思うし、「最初はオリンピックに7000億円かかるって言ったけど本当は3兆円以上かかっちゃうみたい。てへ。ゴメンね。計算ちがった!」というお役所にオイオイオイ! と怒りを燃やしてもいいと思うのだが。そこはもう、それでいいわけね。
日本政府も3億円かそこらの身代金は、世界平和の気持ちでポーンと払ったれや! と思うのは、ひょっとして私だけなのだろうか。まぁ、自分のサイフから出す訳じゃないんですけどね。


「自己責任」というが、私流に言うと。
これは「事前に、責任感を持ってできうる限りの準備をすること」でしかないと思う。たとえばよく情報収拾をする、保険に入る、シミュレーションを重ねる、慎重に行動するなどだ。

しかし「世の中は、その備えを超えた事態も起こりうる」のだから、法的、道義的、立場上、できる限りの責任は負うが「そこには限界がある」のである。自己責任は、「自分のケツは自分で拭く」わけでもなく、「他人の助けを借りない」という意味ではないと思うのだ。
そう。負える責任には、限界がある。人が生きていくうえで、どうしても他人の手を借りなくてはいけないことは出てくる。そんなときのための社会なのである。みんなで助け合うために税金を納めているのである。あいつは知らんなどという人は、誰一人としていないのである。

そして「来なくていいです! 私が悪いんですから!」と電話しても、火事ならば否応もなしに消防車は出動する。「命は助けなくていいです! ひと思いに!」と叫んでも、医師は全力で救命する。「人質は放置していいから!」と言っても、政府はできうる限りの救出の手立てをするのだ。国民の命を助ける。それが彼らの仕事だし、憲法で保障されているからだ。
自業自得だから助けなくてもいい、という議論は成立しないのだ。現行法の下では。

以前、私は他のnoteでこの「退避勧告」について語ったことがあるが、もちろん物見遊山の観光旅行では、政府の指示にしたがって紛争地域に行くべきではないと思う。しかし戦争ジャーナリズムの観点では、政府の指示にしたがっていたら真実は出てこない。そして政府は「行っちゃダメですよ〜。退避してくださ〜い」と「勧告」まではできるけれども、禁止はできないのだ。何人も「海外渡航の自由」は、法律で守られているのだ。
「政府が止めているんだから、言うことを聞くべき」という政府絶対感があるのならば、日本はますますヤバイ。政府よりも憲法のほうが上であることを忘れてはいやしないか。これではお上(かみ)の言いなりで、戦争まっしぐらである。(そして、政府を縛っている憲法を骨抜きにしようとしているのが、安倍クンなのだが)


パン屋さんが火事を出して大騒ぎになったら、できる限りのことはしたうえで、周囲に謝るしかない。車で事故を起こしたら、できうる限りの補償をして、ときには罪を償い、そして被害者に謝るしかない。海や山で遭難したら、助けてくれた人に感謝し、そして謝るしかない。
今回しくじってしまった安田さんは、無事に帰ってきてすべてを報告し、そして関係各所に謝罪をしたのだから、もうそれでいいのではないかと思うのだ。



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