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現代の巫女、我が家に現れり


現在展覧会をやっているル・コルビジェだが。彼が語った
「家は宝箱でなくてはならない」
という言葉にインスパイアされた私たち夫婦は、この連休を使って家の大改造を行った。
匠(旦那さん)は初日からノコギリをふるって、庭やら椅子やら玄関の下駄箱やらをスクラップ&ビルド。大々的にリフォームしている。
特に玄関の下駄箱を派手に作り変えてくれたのは、本当に助かった。この家、大して家事を手伝わない、気の利かない「男」が設計したよな〜と、呆れる箇所が所々にある。特に玄関の靴箱(ロングブーツやショートブーツという概念がない男のようだ)とかキッチンとか(背の高い私にはいいが、155cm以前の女性には不便この上ないのと、シンクの使い勝手とか冷蔵庫スペースだとか、なっておらん!)。色々と募る不具合をコツコツと直していきたい。


私は私で、以前より宣言はしていたのものの、なかなか思うように進行しなかった片付けをエイヤッと実行。息子たちも小学校時代の遺物を初めてとして、大断捨を決行。
今回の私は、もうここは今Netflixで再ブレーク中の「こんまり(近藤麻理恵)」に思いっきりあやかろうと、彼女の言うことを盲信して実行している。やっぱりスゴイ、こんまり。この私が、片付けが楽しいと思ったのは初めてだからだ。物を減らしてスッキリしていた以前の片付けとは、もう次元が違う。

薄々感じていたが、彼女は「巫女」だなぁと思う。
基本、家や物にまるで祈るように話しかけ、ひたすら家の「気」のことに触れている。衣類の片付けも書類も雑貨も、一度移動させて同じ種類のものを一箇所に集めるのは、単に「どれだけのものを所有しているのか、ひと所に集めて把握する」ためだけではない。同時に「物を動かして、寝ているところを『起こす』」と言っているのだ。
Netflixの動画を観ていると、現にアメリカ人の家の中で、彼女は本を揺り動かしたり、手を叩いて物を目覚めさせたりしているのが面白い。のんびりやってはまた「気」が停滞するので、一気に集中してやらせるのも彼女ならでは。

そう思って私も片付けていたら、こんまりは巫女のバイトをしていたことがあると言うので合点がいった(動画の後は、audibleアプリで彼女の著作をヘッドフォンで聴きながら片付けている。見よ、私のこの徹底ぶり)。
そして、そのうちに「家を神社のような空間にしたい」という彼女の発言に行き着く。やはり、そうであったか。「玄関をくぐるときは、そこは鳥居だと思っている」とか。
何も厳かな神聖な場所にしたいと言っているのではなく、彼女にとって神社は馴染みのある安心する場所であり、雑念のない安全地帯なのだろう。何と言っても、彼女は現代の巫女なのだから。
こんまりは日本中、いや世界中を「清める」べく仕事をしているのだ。
何より感心するのは、彼女のその不思議な理論を、動画に出てくるアメリカの人たちが100%理解していること。「purify(清める)」は、何も日本だけの概念ではないのだ。人々が、実は心の底から求めている感情なのである。
彼女から学んだのは、頭であれこれ考えるのではなく(もちろん彼女独特の片付けの方法論はあるのだけれども)、要はシンプルに「気」がいいかどうか。いい「気配」のある空間を作り出せているかどうか。そこへのフォーカスが大事ということ。


不思議なもので。
片付けていると、こんまりの「ときめき」に言い換えてもいのだが、私の中で「大好きなんだけれども、エネルギーを感じない」というものがポロポロと出てくる。
昔から大好きで大切にしているものなんだけれども、いざ今になって真剣に向き合うと「あれ?」ってほど心が動かない。でも、過去の私がそれを「取っておいて〜」って叫んでいるのだけれども、どうしましょう……という部類のものが続々と出てくる。
もう私の波長と合わなくなっているのだな。
反対に、未来の私が「取っておくと、何かいいかもよ〜」と囁いているものもある。これも極力、取り除く。
ごめんね、力が湧かないモノが溢れていると、こちらもぼんやりと霞んできてしまう。今を生きよと、巫女が言うのじゃ。

友達や恋人、人間関係もそうだよね。
好きなんだけれども、もうお互いの中で何も生まれない。会話もふっと止まって続かない。何かエネルギーが産まれる気がしない。別に嫌いになったわけでもなく、相変わらず大好きなんだけれども。不思議だ。あんなに仲が良かったのに……!
そんなときは、ちょっと「引き際」なんだと思う。距離を置いてみることで何かまた生まれるかもしれないし、生まれないのかもしれない。

自分の感覚を鈍らせないためにも、こういう作業はつくづく必要なんだなぁと再確認した、この連休でありました。






ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️