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救世軍による犯罪部族更生事業

出典:
The History of The Salvation Army, vol.iii, pp.274-278.

インドにはかつて「サッグ」「タッグ」「サギー」「ダコイ」と呼ばれる犯罪部族が存在し、19世紀末の推計では少なく見積もっても 100万人の男女が殺人と窃盗を生業としていたとされます。死の女神カーリーを崇拝し、インド国内の富裕な旅行者を標的とし、悟られないよう巧みに接近し、熟練した技により一切苦痛を与えずに一瞬にして犠牲者の命を奪いました。

インド植民地政府は、これら犯罪部族を撲滅するために、刑罰や社会改良など、あらゆる方策を試みましたが、ことごとく失敗に終わっていました。

1908年に連合州行政委員で、ロヒリカンドの行政官であったツウィーデー氏が、救世軍インド司令官のフレデリック・ブース-タッカー中将に対して、犯罪部族更生事業の委託が可能かどうか、打診しました。連合州副知事ジョン・ヒューイット卿はひとつの部族を選定し、試験的に救世軍が更生事業を行い、その成果を見た上で他の部族についても委託するかどうか決めるよう、手はずを整えました。

ブース-タッカー中将夫妻は犯罪部族のひとつ、ドム族の首長を訪問しました。警察は護衛を申し出ましたが、中将夫妻は辞退しました。最初ドム族は、救世軍が更生事業を行うことについて難色を示し、自分たちが飲酒や賭博を捨て去ることは不可能であると言いました。しかし、会談の終了時には、警察よりは救世軍の方がいくらかましであろうという理由で、救世軍を受け入れることに同意しました。

最初300人のドム族が救世軍の管轄下に入り、入植民となりました。連合州行政府は大きな刑務所跡地を救世軍の使用のために提供しました。入植民は次第に整列して行動するようになり、さまざまな仕事を学習し、勤勉に働いて生活費を得るようになりました。

この実験の成果に連合州行政府は非常に満足し、他の部族の入植地もすぐに設置されました。このために、さまざまな建物が救世軍に対して提供されましたが、そのひとつに、城壁と堀で囲まれたアリガル要塞がありました。犯罪部族の方から救世軍に更生援助を求めてやって来ることもありました。はるばる遠隔地から、昼間は密林に隠れ、夜は徒歩で歩いて、集団で救世軍の入植地に向かっているとの連絡が、盗賊団の首領から届いたこともありました。金管バンドを編成した入植地もありました。楽器が不足していたので、楽器がない者たちは靴を手にもって打ち鳴らしました。行政府の絞首刑執行人がバンドの楽長を務めました。バレイリーの入植地では、大きな醸造所の跡地が救世軍に提供されました。モラーダバードでは約80万平方メートルの土地が救世軍に提供され、入植地と病院が設置されました。ナジーババードでは古いイスラム教徒の要塞が救世軍に提供されました。

犯罪部族では、一日にひとつの仕事を勤勉に行うということに、みんな未経験でしたので、いかに入植者に仕事を教え、生活を自立させるかが最も困難な課題でした。工芸品を作ったことのある者は、だれもいませんでしたし、農業に関心を持つ者もいませんでした。しかし、入植者の生活が急激に改善されたために、連合州行政府の経験を積んだ行政官でさえ、その成果に驚きました。すべての入植地が、1923年までに入植者自身の労働によって経済的に自立しました。これにより、行政府の補助金は、学校の運営や建物の維持、監督、高齢者と障害者への給付金のみに充てられるようになりました。しかし、そこに至るには決して道は平坦ではありませんでした。中には、更生を拒む人もいましたし、そのために、救世軍士官たちは命の危険にさらされることもありました。

ベンガル州前知事のロナルドシェイ伯爵は、インドの公衆衛生に関する王立調査委員会に対して、次のような報告をしました。

われわれは救世軍が行っている生糸工場について、非常な注目を払っている。犯罪部族の若者たちが、楽しそうに仕事を行っている。ジョン・ヒューイット卿の行政府は、初めて犯罪部族更生事業を救世軍に委託したが、これは、目に見えて明らかな成功を挙げている。行政府が抱える最も困難な問題に対して、これにより解決が与えられた。現在の成功のゆえに、救世軍に対して大きな信頼を寄せてしかるべきである。

連合州によって示された模範に、パンジャブ州、マドラス州、ベンガル州、ビハール州、オリッサ州の行政府もすぐに倣いました。救世軍の入植地に入ったのはサンシア族、ブハート族、ハブラー族、ナト族、カルワル族、ドム族、マガヤドム族、イェリクラ族、ヴェップルパリア族、コラカ族などです。すべての入植地に学校が設置されました。ある入植地では、必要とされた 16人の学校教師のうち9人は入植者の中から出ました。1939年には、刑務所から救世軍の入植地に移された男の息子が、試験に合格して、マドラス大学で修士号を取得するまでになりました。この青年は、社会問題を討論する能力を持ち、スポーツマンであり、模範的なクリスチャンの紳士であるとの評価を、大学当局から受けました。

犯罪部族更生事業で最も目覚しい成果を挙げたのは、アンダマン諸島のポートブレアでの入植事業です。連合州で最も悲惨な部族がそこに移住させられました。エドウィン・H・シアード中校(後に大佐)が最初の責任者に任命されました。シアード中校は入植計画を立案し、建物の配置図を決め、入植者に全く新しい生活を始めさせました。農業と織物業が導入されました。シアード中校の家では、地元の刑務所から派遣された囚人が使用人として働きました。その中には殺人犯の夫婦もいました。毎週日曜日の午後には聖書研究会が行われ、約100人の人々が全くの自由意志で参加していました。その多くが若者たちでした。入植地が設立されて2年後、アンダマン諸島主席行政官は、一般住民よりも入植地の方が治安が良いことを証言しました。

かつて無法の生活をしていた犯罪部族が、救世軍の入植事業によって更生に成功した結果、これらの入植地は姿を消し、現在はもう存在していません。かつての入植民の子孫が、少数ながらいくつかの救世軍の入植地に今も生活していますが、入植民のほとんどは、犯罪部族法が廃止された結果、すべて解放されて、一般住民の中に溶け込みました。インド植民地政府は、犯罪部族更生事業で働いた救世軍士官に「インド皇帝勲章」を授与しました。その中には、エドウィン・H・シアード大佐(1916年に銀賞、1924年に金賞)、ソロモン・スミス中佐(1925年に金賞)、ウイリアム・フランシス中佐(銀賞)、レスリー・R・ゲイル少佐(銀賞)がいます。




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