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きのこの山 vs たけのこの里、みたいな二項対立図式の落としどころは、いったいどこに? という話です。

人間と言うのは不思議なもので、ものごとをなんでも二項対立図式でとらえてしまいがちだよね。

 赤薔薇派 vs 白薔薇派
 持明院統 vs 大覚寺統
 皇道派 vs 統制派
 講座派 vs 労農派
 決定論 vs 非決定論
 トロツキー派 vs スターリン派
 共青団 vs 太子党
 北大西洋条約機構 vs ワルシャワ条約機構
 きのこの山派 vs たけのこの里派
 広瀬すず派 vs 広瀬アリス派
 つぶあん派 vs こしあん派

。。。まだまだキリがない。。。

二項対立でピクチャーを描いてしまうと、両者は正面切って対決することになる。

で、どちらにも相応の言い分があるわけだから、ひとたび衝突してしまうと、終わりのない議論、闘争、紛争、戦争になってしまう。

しかし、戦争になって、戦争をどこまでも続けたら、双方自滅してしまうので、どこかで落としどころを見つけないといけない。

それを、落としどころ、と見るのか、妥協、と見るのか、大人の解決、と見るのか、ヘーゲルの正反合の弁証法的展開と見るのか。。。

どうしたものだろうね。。。

今日の聖書の言葉。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコブの手紙 1:22 新共同訳

クリスチャンの場合に陥りがちな二項対立図式というのがある。

典型的なのが「信仰 vs 行為」というやつだね。

これを極端に整理すれば、こういう感じになるかねー。。。

【信仰重視】イエスが提供した救いは完全なので、それを信じれば、行為がゼロであっても救われる、という考え方。

これに対して

【行為重視】イエスが提供した救いは完全だが、それを信じ・かつ・行為も伴わなければ救われない、という考え方。

この二つの考え方がガチンコ対決して来たのがキリスト教史二千年だ、というざっくりとした言い方も出来なくは無いと思うけど(諸説あります)

両者の言い分を聞くと、どちらの考え方にも一理あるよなー、と感じる。

でもね。。。

自分としては、第三の考え方があるんじゃないか、って思うんだ。

それは、こういうのだ。

イエスが提供した救いは完全だ。なので、信じただけで救われる。救われるためには行為は不要だ(やったー、ハレルヤー!)

でも、そのようにして「救われた」ひとが、電車の席に座っていて、そこに妊婦がやってきたけれど、寝たふりをして席を譲らなかったとしたら。。。

そうしたら、救われた、という恩恵は、救われたと言う当人には有効かもしれないけれど、席を譲ってもらえなかった妊婦にとっては、まったく何の役にも立たない・つまり・無いのに等しい。

もし信仰が、自分の役に立つだけで、自分以外のだれの役にも立たないのであれば、それは、世界に存在していないのと同じ、ってことになってしまう。

だって、世界の大部分は他者で出来ているわけだから。。。

これは、悲劇だよね。

そういうふうにならないためには、行為によらず信仰だけで救われた、と言うひとが、他者に対して聖書の言葉を日々実行していくしかないんだと思う。

もちろん、それは、自分を救うためにするわけじゃあない。

だって、自分は、信仰だけでもう救われちゃってるわけだから。

でも、その信仰が確かに世界内に実在することを証しするためには、他者に対して聖書の言葉を実行する必要があると思うんだ。

御言葉を行う人になりなさい

じゃあ、具体的にどういうコトを他者に対して実行すればいいんだろう?

すぐパッと思いつくのは、これだね。

基本、こういうコトを他者に対して実行していけばいいんだと思う。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。
ガラテヤの信徒への手紙 2:22-23 新共同訳

考えてみれば、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制っていうのは、自分ひとり独占して楽しむコトでは、ぜんぜんないじゃん?

どれもぜーんぶ、他者があってはじめて成り立つコトばっかりじゃん? 

っていうか、他者から見て「あー、たしかにそれがありますね、そこに。まちがいないです」って他者から感知されて、はじめてそれがある、って言えるコトばっかりじゃん?

愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制

というわけで「信仰 vs 行為」の落としどころとしての「聖霊が結ぶ実」を、他者からちゃーんと感知してもらえるように、ココロを新たにして世界に踏み出して行きたいと思う。

とりあえず、電車のなかで寝たふりをするのは、やめよう。

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