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絶望の世界で希望のビジョンを見る。

世界の闇の奥底みたいな場所で、それでも希望の未来を信じられるか、っていうチャレンジ。

これに正面から立ち向かってるのが旧約聖書のイザヤじゃないかと思う。

数ある世界の民族から選び出され、神の寵愛を享受できる立場にあるイスラエル・ユダヤ人が、悲しいことに神から離反し、裁きを受け、神殿を破壊され、遠い異国に捕囚されてしまうという、絶望的な状況。。。

その絶望のさなかにあって、預言者イザヤは希望の言葉を紡ぎ出そうとする。そのひとつが今日の聖書の言葉だ。

今日の聖書の言葉。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
イザヤ書 53:6 新共同訳

1947年にクムランの洞窟で死海写本群が発見されたとき、いちばんの目玉が、このイザヤ書の完本である「写本A」だった。

この発見により、当時人類が手にしていたイザヤ書の最古の写本の年代がいっきに1000年以上さかのぼった。

いまその写本はイスラエル・ユダヤ人の魂の至宝のようにみなされ、エルサレムの死海写本館のメインの展示物になっている。

そりゃ、そうだろうなあ、と思う。想像を絶する苦難を何度も通りながら、なおも神に望みを置き続ける彼らの信仰は、まんま、生きたイザヤ書のストーリーのようだ。

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絶望の底でイザヤが見たビジョンとは、イスラエル・ユダヤ人が全人類の贖罪のために「苦難のしもべ」としての役回りを引き受けさせられる、という内容だった。それがイザヤ書53章に劇的に描かれている *¹。

集団としての「苦難のしもべ」が身代わりに苦しむことによって、人類の罪が浄化され、神の栄光に満ちたあたらしい世界が到来する。その栄光のなかでイスラエル・ユダヤ人の苦難は最終的に報われるのだ。

新約聖書はそのイザヤのビジョンを引き継ぎながら、しかし、「苦難のしもべ」のポジションを、集団としてのイスラエル・ユダヤ人から、個人としてのイエス・キリストのうちに集約させてしまう。

つまり、神のひとり子であるイエスが「苦難のしもべ」として十字架につき、死ぬことで、人類は聖化され、あたらしい世界が出現するのだ。その「あたらしい世界」のアイコンが、復活のイエスの身体なのだと思う。

自分にとって、絶望的な状況に追い込まれたとき、いちばんの魂の薬は、やっぱり、復活のイエスをみつめることだよなあ、と思う。

失敗したとき、つまづいたとき、失望したとき、攻撃されたとき、逃げ場がないとき、弱り果てたとき、終わりを覚悟したとき、悲しいこと、つらいことがあるとき、そのたびに復活のイエスを思う。

復活のイエスは、それがそのまま、自分の罪がすべて赦され、聖霊の賜物を与えられ、永遠の命を授けられ、天のあらゆる祝福を相続できるという、目に見える神の保証であるわけだから。

いま、コロナのために暗い闇を通らされている気分になることが多いけど、あらゆる絶望にケリをつけて復活したイエスをひたすら見つめて生きて行きたいと思う。イエスは言った *²。

わたしは世の終わりまで
いつもあなたがたと共にいる

註)
*1.  イザヤ書53章

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

*2.  Cf. マタイ 28:20

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