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金持ちか、貧乏か、はたまた両方か。明日からオレは?

自分が所属している教会はビクトリア朝のロンドンのスラム街で設立されたというルーツを持っている。しかも、クリミア戦争後の軍隊ブームをカラーに取り入れた歴史的経緯があることから、教会内で使っている用語にいろいろ独特なものが多い。たとえば、路傍伝道を野戦と言ったり、担任牧師を小隊士官と言ったり、信徒を兵士と言ったり。しかし、第一次大戦と第二次大戦という悲惨な総力戦を諸国民が経験した結果、軍隊に対して世間が抱くイメージは天から地の底に落ちるほど悪化した。なので、教会なのに野戦とか士官とか兵士とかいう用語を使い続けることには、それなりに試練もあるし、覚悟も要る。でも、用語というのはアイデンティティーを構成している要素だから、時代に合わなくなっても、なかなか簡単に変えられるものではないんだよねー。

しかし、ハリストス正教会の用語とか見ていると、いやー、その覚悟たるや、自分なんかのはるか上を行くよなー、と感心もし、敬服もしてしまう。幕末から明治初期の漢語をベースにロシア正教の用語を日本語に移植したものが、いまなお変わることなく使われ続けているんだ。聖体機密とか克肖致命者とか生神女とか、独特の語感がカッコいいんだけれど、なかでも自分がシビレてしまうのが「佯狂者」(ようきょうしゃ)という用語だ。なんかもう見ただけでもパワーワード感にあふれている。

佯とは「~のふりをする」という意味で、佯狂とは「馬鹿になったふりをする」ということ。世俗の関心にわずらわされることなく神への祈りに全身全霊を注ぐため、ボロをまとい、乞食をし、人々からの侮辱や迫害を耐え忍び、夜は教会の軒下で眠るというライフスタイルを選択した聖人のことを「佯狂者」と呼んだ。いまふうに言ったら「キリスト馬鹿」だろうか。モスクワの赤の広場に面した聖ワシリイ大聖堂は、佯狂者ワシリイ・ブラジェンヌィにちなんで建てられたんだけど、彼はボロどころか一糸まとわぬ裸体で路上生活してたんだって。冬はマイナス10度にもなるモスクワをどうやって裸で生き延びたのか不思議だけど、なんと100歳まで長寿を保ったらしい。

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今日の聖書の言葉。

心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5:3 新共同訳

今日の聖書の言葉にある「貧しい人々」は、ギリシャ語の原典でπτωχοὶ(プトーコイ)という言葉が使われている。原意は体をふたつに折り曲げて地を這うように歩くということで、そこから転じて、身を低くして物乞いをしながら生きるという意味になった。聖書外の古典での用法は、どうしようもないほどの貧しさ、極貧、窮乏、乞食、無一物、金持ちの正反対、というようなネガティブな用法ばっかり。福音書の中で使われたことで、はじめてポジティブな意味を持つようになったんだ。まあ、貧しさ=ポジティブなんて考え方は新約聖書特有だよね。

この世の富や地位や名誉を失っても天国で永遠のいのちをゲットできれば、いいじゃん!という考え方があるけれど、まあそうは言ってもね。この世での生活だって、それなりに楽しんで生きて行きたいよ、それなりに。。。というのが多くのクリスチャンのホンネではないかと思う。そういう時に便利に引用される聖句がヨハネによる福音書 10:10 だ。

わたし(イエス)が来たのは
羊が命を受けるため
しかも豊かに受けるためである

ほーら、ね、イエスさまだって、オレたちに豊かな生活を約束してくれてるじゃん、ということになっちゃうんだけど。しかし、新約聖書はおちおち安心して読んでいられる書物ではない。すかさず逆襲して来るオソロシイ本でもあるのだ。たとえばマタイ19:23-24とか。

はっきり言っておく
金持ちが天の国に入るのは難しい
重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい

ほかにもまだたくさんあるんだけど、コワイからやめておこう。。。というわけで、自分的には「豊かな命」と「心の貧しい人々」というふたつの聖句のイメージのあいだで日々ゆれ動いている。あるときは無数の羊・牛・山羊・ロバを所有し多くの家来を引き連れて生活した族長アブラハムや、世界中に貿易船団を派遣してあらゆる秘宝と山海の珍味を享受した知恵王ソロモンに憧れることもあれば、ハリストス正教の「佯狂者」みたいなライフスタイルをスゲーと思って憧れることもある。。。まあ、どちらの極端にしたって実践できるわけではないんだけどさ。。。聖書を読んでいて興味深いと思うのは、両極端を一気に体験したひともいる、ということ。それが旧約聖書のヨブ記に出て来るヨブだ。ヨブは古代の東洋における有数な金持ちであったのに、佯狂者ワシリイみたいに裸で地を這い回る状態にまで落とされた。しかも、そこから起死回生してもういっかい大金持ちになったというから、すごい人生だよね。

聖書にも世界にも、いろんなライフスタイルを送っているひとがいるけれど、いちばん大切なのは、自分がなりたいような自分になる、ということよりも、神が望んでいるような自分になる、ということなのかもしれない。だから「自分がなりたい自分とは神が望んでいるような自分になること」という、ただ一点をちゃんと見定めてさえいれば、今後の自分のライフスタイルがどういうふうに展開したとしても、「うん、それでいいじゃん!」と思えるんじゃないかと思う。さて、そういうわけで、自分はアブラハム、ソロモン、ワシリイ、ヨブ、いずれになるのか、それとも、いずれでもない独自の人生を歩むのか。それは神さま次第だ。

さかえは 主にあれ  
すべては いとよし
*

註)
*  『救世軍歌集』コーラス144番

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