見出し画像

身を引くことは、大切だよね、っていう話です。

よい人生を送りたい、っていうのは、万人の願いだと思う。

だけど、じゃあ、よい人生の「よい」ってなによ? ってことになると、それはひとによって千差万別だよね。

ひとによって「よい」が違うのは「よい」として。。。

残念なのは、Aさんが「よい」と思ってやることと、Bさんが「よい」と思ってやることが衝突して、損害が発生する状況になることだ。

なんか、生きてると、そんなことばっかり経験する。

そうなってしまったら「よい」とは言えないよなー、と思う。

今日の聖書の言葉。

人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書 6:8 新共同訳

聖書は「よい」について、鼎立ていりつみたいなことを言っている。

てい」っていうのは、古代中国で使われていた三本足の青銅器だ。

最も安定するのが三本足だけど、一本でも足りないと、ひっくりかえってしまう。

ちょうどそれみたいに、今日の聖書の言葉が勧める三本足のひとつでも欠けると、とたんに「よい」が成立しなくなっちゃうんじゃないかと思う。

その三本足とは。。。

● 正義を行う
慈しみを愛する
へりくだって神と共に歩む

この三つだ。

もし、ひたすら正義を追求するだけだったら? そうだったら、そのオソロシイ結果は目に見えている。人類の歴史はそのたぐいの悲劇が満載だ。

だから、正義は慈愛によって補完される必要があるんだと思う。母がわが子を慈しみ愛する気持ち。それが慈愛だ。オキシトシンにあふれていたら、正義の鉄槌を下して滅ぼしてやる! とかならないわけじゃん。

でも、慈愛だけだったらどうなるんだろう? 自分はこんなに愛しているんだから、相手が自分の言うことを聞くのは当然だ、自分には相手を支配する当然の権利があるんだ、みたいな愛の専制政治が生まれかねないよね。

だから、慈愛はへりくだりによって補完される必要があるんだろう。へりくだる、とは、身を低くすることだけど、具体的には、引退する、舞台から降りる、隠居する、ってことも含まれるんじゃないかと思う。

注意したいのは、聖書は「へりくだって神と共に歩む」って言っているわけだから、身を引くっていう消極的な面は、神と共に歩むっていう積極的な面と、表裏一体になっていることだよね。

自分がここで身を引いたら全てが終わりだ、みたいにどうしても思い詰めてしまいがちだけど。。。

でも「ここで引こう」という思いがあればこそ、正義の暴走にも、慈愛の暴走にも、ブレーキがかかるんじゃないかと思う。

そういうことを考えると、任期制とか引退制って、やっぱり大切なんだなー、って思う。いま世界で起きている悲劇を思うと、特にそれを強く感じるんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?