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不完全な人生を、完全なイエスにたすけられながら生きる。

生きている年月が長くなるほど、なんとなく、完全、という言葉を敬遠するようになるよね。。。

まあ、そうじゃないひともいるんだろうけど。。。

なんで、完全、って言葉を敬遠するようになるかというと、世の中には完全なものが、ほんと、ないよなー、という思いが強くなるから。。。

強くなる、というより、深まる、って言ったほうが、いいかね。。。べつに強力に主張したい、というわけでも、ないので。。。

まず、自分が完全ではないことを、いやというほど思い知らされる。

また、他者も完全ではないし、世界の仕組みだって完全ではない。

そういう完全ではない自分・他者・世界と、どうやって折り合いをつけるか、ってことばかり考えるようになる。生きていれば、生きているほど。。。

今日の聖書の言葉。

主に従う人は完全な道を歩む。 彼を継ぐ子らは幸い。
箴言 20:7 新共同訳

なので、「完全」っていうワードが聖書に出て来ると、ドキっとするんだよね。。。

困っちゃう、というか、どうしたものか、と思ってしまう。。。

そして、なんとか、完全でない自分・他者・世界を、「完全」というくくりにもぐりこませられる解釈学的抜け道があるんじゃないだろうか、ということばっかり考えてしまう。

ほんとは、いけないんだろうけどね、そんなことじゃあ。。。

でも、開き直って、やってみた。

こんな感じだ。。。

今日の聖書にある「完全」って言葉は、旧約聖書のヘブライ語の原典ではトムっていう単語が使われていて、「裏表がない」っていう意味らしい。

で、「義人」っていうのはツァディク。「神のこころを完全に満足した状態」あるいは、そういう状態の人間、っていう意味だ。

これらを自分にあてはめてみると。。。

自分は、裏表のない人間だろうか?

表の顔と、裏の顔。違いが無いように努力しているつもり。。。

なんだけど。。。

やっぱり、他者に見せられない、自分だけが知っている自分の暗黒面というのが、あるよね。

なので、自分は裏表がある。だから、自分は義人ではない。つまり、自分は神のこころを満足させるような状態には、ない、ってことになる。

これが結論。

悲しいことに、と言うか、ありがたいことに、と言うべきか、聖書は、この結論を次のように承認している。ローマの信徒への手紙 3:10 の言葉だ。

義人はいない、ひとりもいない


どうすんねん、これ。。。って感じがしちゃうけど。。。

でも、聖書は、「神のこころを完全に満足した状態」の人間が、ひとり、いる、ってことも示しているんだ!

それが、イエスだ。

イエスが「神のこころを完全に満足した状態」にあることの証拠聖句が、これ。マタイによる福音書 3:16-17 だ。

イエスは洗礼を受けると
すぐ水の中から上がられた
そのとき、天がイエスに向かって開いた
イエスは、神の霊が鳩のように
御自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき
「これはわたしの愛する子
わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた

神が神自らイエスに向かって「わたしの心に適う者」と宣言している。この宣言は、変貌山でイエスが栄光の姿に変わったときにも、繰り返された。マタイによる福音書 17:5 だ。

ペトロがこう話しているうちに
光り輝く雲が彼らを覆った。すると
「これはわたしの愛する子
わたしの心に適う者。これに聞け」
という声が雲の中から聞こえた

このようなわけで、イエスは「神のこころを完全に満足した状態」の人間であることになる。

希少な義人が、いた!


イエスは義人だから、イエスが祈ると、父なる神は100パーセントそれをかなえてくれる。ラザロを蘇生させる場面で、イエス自身こう祈っている。ヨハネによる福音書 11:41-42 だ。

父よ、わたしの願いを
聞き入れてくださって感謝します
 わたしの願いをいつも聞いてくださることを
わたしは知っています

義人であるイエスの祈りは100パーセント実現する。

そのイエスが、十字架にかかる直前、われわれのために祈りをささげてくれている。この「イエスの祈り」のなかに、われわれみんなが包摂されているんだ。

完全にはほど遠い自分・他者・世界。。。そのすべてを包み込むイエスの祈り。ヨハネによる福音書 17章で、イエスは次のように祈っている。

聖なる父よ
わたしに与えてくださった御名によって
彼らを守ってください
わたしたちのように、彼らも一つとなるためです

彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって
わたしを信じる人々のためにも、お願いします
父よ、あなたがわたしの内におられ
わたしがあなたの内にいるように
すべての人を一つにしてください
彼らもわたしたちの内にいるようにしてください

このイエスの祈りによって、不完全なわれわれの救いが保証されている。その救いとは、相互内在である三位一体の神(父・子・聖霊)との完全かつ永遠的な結合だ。

じゃあ、救いを保証されているわれわれは、あとは、なにをすればいいんだろう?

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者
これに聞け

われわれは、イエスに聞けば、いいのだ。

なので、イエスに聞く、ってこと。これをやりながら、不完全な人生を生きていけばいいのかなあ、と思っている。

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