終盤と続編に期待する
小説とか映画をみていると、ストーリーのなかに「伏線」が、いろいろ出てきて、終盤にむかって、どんどん回収され、ぜーんぶつながって、「そうだったのか!」となって、終わる。。。というのが、カタルシスを感じる作品だよね。
でも、未回収の伏線をいくつか残して終わってしまうと、「えっ?」ってなって、もしかして、続編あるの? いつ出るのよ? となる。
さらに、伏線なんか、ぜんぜん無視して、すべて未回収で終わってしまうと、こっ。。これは。。。不条理映画だったのか。。。最初からそう言ってくれよ。。。となるねー。
聖書を、そういう作品としてとらえた場合、どうなるんだろう?
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二部で構成される、1500年以上にわたる壮大なストーリーだ。そのなかには、いろんな人物、いろんな出来事、いろんな言葉、いろんな祈りが、ちりばめられている。これは、もうね、伏線だらけだ。。。伏線につぐ伏線。。。
で、それらすべての伏線が、新約聖書という終盤において、イエス・キリストという主人公のなかに、ぜーんぶ回収されていくんだ。
回収された伏線として、最も代表的なのは、旧約聖書のイザヤ書53章だと思う。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤ53:4-5 新共同訳
イエス・キリストの生涯、ことば、わざ、十字架、復活をとおして回収された、旧約聖書の伏線。。。
今日の聖書の言葉。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 8:28 新共同訳
そして、回収されるのは、旧約聖書の伏線だけじゃないんだ。わたしたちの人生の伏線も、最終段階において、ぜーんぶ、イエス・キリストのうちに回収される、と今日の聖書の言葉は約束している。
あんなことが、どうして? こんなことを、神様、なぜ? という出来事が、人生には、ある。答えがないように見えるミステリーだ。。。
けれど、それらは未回収のまま終わることはない。自分も、みんなも、必ず納得できるような形で回収されるから、イエス・キリストがどうそれをしてくださるのか、期待しよう。。。
それでは、この続きは、新しいエルサレムのパーリーゲートカフェ(真珠門茶館)での「天国編」にて!
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