主人のスピリットの継承者の「つとめ」とは何か。。。それは、黒板の文字をチョークでなぞる、っていう話です。
コトバを読んで、コトバを超える感覚を、そわっ(ぞわっ、じゃなく)と感じる瞬間って、あるよねー。
三十年ぐらい前、岩手県の花巻に行ったんだけど。。。
そこで、宮沢賢治が大正15年に花巻に設立した羅須地人協会を訪ねたんだ。
そこには賢治が住んでいた家屋があって、その入口の黒板にチョークでこのように書いてあるのを目にしたとき。。。
下ノ 畑ニ 居リマス 賢治
その瞬間、そわっ、と感じた。
なんだろうかね。。。
主人の不在を告げながら、しかも、主人がすぐ帰ると告げている、このメッセージの二重性。
黒板にチョークだけなのに、その空間だけ、空気が違った。
そわっ、とした空気なんだ。
今日の聖書の言葉。
いないけど・いる。いるけど・いない。
このメッセージの二重性は、ほんと、イエスの臨在と再臨の「そわっ」とした感覚に似ているよなあ、と思う。
新約聖書によれば、イエスは十字架にかかり、全人類の贖罪を成し遂げ、復活して、弟子たちに姿をあらわした。そして、弟子たちに告げたんだ。自分は去るが・いつも共にいて・再び戻って来る、って *。
いないけど・いる。いるけど・いない。
その、そわっ、とした感覚を醸成することを意図して、ああいうふうに黒板に書いたんだろうかね? それとも、意図せず、たまたま、そうなったんだろうか。。。
クリスチャンと親交があったとは言え、宮沢賢治は国柱会の熱心な法華行者だったから、イエスの再臨をチョークで表現、なんてことは、まあ、たぶん、意図していなかったとは思うんだけど。。。
その黒板は、花巻農業高校の掃除係の生徒が、チョークが薄くなるたびに、上からなぞることで、いまに伝えられているんだって。
これもねー。。。こんなこと感じるの、自分だけかもしれないんだけど。。。「聖書」っぽいよなー、と思うんだ。
素材としての聖書って、19世紀の聖書学の進歩(自分的には進歩とは思えないんだけど)によって、それこそ、コテンパンにされて、その脆弱性があらわにされたんだけど。。。
その脆弱性って、まさに、黒板にチョーク、なんじゃないだろうか。すぐに消えてしまいそうな、脆弱性。
でも、主人のスピリットの後継者が、チョークが薄くなるたびに、上からなぞる。。。
主人が残した文字を、そのまま、そのとおりに、なぞる。。。
そうすることによって、メッセージは、消えそうなのに・消えない。消えないけど・消えそうになる。でも、やっぱり、消えそうなのに・消えない。。。
いないけど・いる。いるけど・いない。
このメッセージの二重性の背後にある、主人のスピリット。つまり、イエスのスピリットは、なんであるのか、と言うと、それは、今日の聖書の言葉にあるとおり。。。
一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと
あなたがたのために忍耐しておられるのです
これなんだなー、と思う。
いないけど・いる。いるけど・いない。
イエスは今日、再臨するかもしれないし、再臨しないかもしれない。
このメッセージの二重性のなかに、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと待ち続ける、イエスのスピリットが息づいているんじゃないだろうか。
あの「そわっ」とした感覚は、その息吹なのかもしれないねー。
さて、自分は、今日も黒板のチョークを、上からなぞろう。主人が書いたその文字の通りに。。。
註)
* Cf. ヨハネ 14:28, 使徒言行録 1:11, マタイ 28:20
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?