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だれだって、生まれて来たときは無力な小さな赤ん坊で、その弱さのなかで、ただ泣くことしかできなかった。。。

ルサンチマンという哲学用語がある。強者にやり込められている弱者がいて、弱者があまりに弱いために、強者への怒りを一瞬でもオモテに出せない場合。弱者はどうするかというと、反発心を原動力として自分のこころのなかにファンタジーを構築し、そこへ逃避するという。それがルサンチマンで、これはまあ、精神のバランスを保つための、一種の防衛機制みたいなものだろう。。。

このルサンチマンという概念を使って聖書をけちょんけちょんにこきおろしたのが、ドイツの哲学者ニーチェだ。ニーチェの考えでは、弱者であるユダヤ人は、強者であるカナン人にやり込められる一方だったので、行き場のない怒りを使ってファンタジーを創作した、それが聖書だ、と言うのだ。ルサンチマン理論に影響された聖書学者のなかには、出エジプト・カナン征服・ダビデとソロモンの栄華など、ぜーんぶ架空であって、歴史的事実ではない、と観る者たちがいる。つまり、エリコの城壁の鉄の守りに対し、傷ひとつつけられないユダヤ人は、遠くから恐怖しながら、脳内で妄想した。。。ヨシュアに導かれた軍勢がエリコを7周回ると、砂の城みたく城壁が崩れ落ちた、っていうシーンを。。。というわけだ。

そうであるなら、悪く言えば、聖書は嘘ばっかりの本、ということになり、だから、自分が強者であることを誇り、世界のだれより弱者を憎んだナチスは、けしからん聖書を焚書しちまえ、という行動に出ることになる。まあ、ナチスは戦争に負けて、世界のだれより弱者なのは実は自分だった、ということを証明しちゃったんだけど。現代でも、アメリカの大手書店が聖書をファンタジーのコーナーに置いて、物議をかもしたよね。。。

今日の聖書の言葉。

幼子、乳飲み子の口によって。 あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。
詩編 8:3 新共同訳

自分はクリスチャンなので、聖書に書いてあることは、ほんとうだと思っている。つまり、ほんとうに無力な乳飲み子が、強大な敵を完膚なきまでに滅ぼすことができる。っていうか、すでに、イエスの出来事において、乳飲み子が強者を滅ぼしてしまった。過去完了形なのだ。最弱の存在が、最強の存在を滅ぼした結果として、幼子たちの王国である「神の国」が到来する・しつつある・した、というのが新約聖書のストーリーなのだと思う。

イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
ルカによる福音書 18:16 新共同訳

じゃあ、ルサンチマン理論に対しておまえはどうやって聖書を防衛するのか、って言う向きもあると思うけど、自分は聖書を防衛する気は、さらさらない。そんな時間も知力も自分にはないので。むしろ、幼子たちの王国である「神の国」が到来する時、その栄光の輝きのなかで、聖書が正しいかったかどうか、っていう議論は、砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうだろう、と信じている。それは、おばあちゃんからもらったアメをポケットに入れて、学校からの帰り道、ママに聞かずにアメをなめていいかどうか悩みながら家に着くと、居間にドーンと巨大なバースデーケーキが鎮座ましまし、さあ、食べましょう!とママがのたまう、その驚きと栄光と興奮のなかで、もうポケットのアメは完全に忘れてしまう、みたいな感じになるんじゃないか。。。それこそおまえのファンタジーやん、というご批判はあるだろうけど、それは聞き置く。

弱者が強大な敵を倒すストーリーが人類歴史のなかで「ほんとうの出来事」となるためには、弱者はただの弱者ではなく、世界最弱の弱者でなければならなかった。だから、神は幼子となることを選択したのだと思う。永遠で無限で全知で全能である神。強者のなかの強者。強者という概念すら超越する強者である神は、神としてのありかたを捨て、小さな赤ん坊となり、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に降り立った。それがイエスだ。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました
フィリピの信徒への手紙 2:6-7 新共同訳

そのイエスは、世界最弱の手段で敵を打ち負かした。それは、永遠に不死の存在である神が、無抵抗のまま、あざけられ、うちたたかれ、十字架につけられ、死ぬ、という手段だった。ニーチェではないけれど、ほんとうに「神は死んだ」のだ。この、最強の神が最弱となって死ぬプロセスを経て三日目にイエスが復活した時、世界は変わっていた。神のこの行為の結果、すべての強者は弱者に転換され、逆に、すべての弱者は強者に転換されたのだ。

子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 
ヘブライ人への手紙 2:14-15 新共同訳

その結果、イエスが復活した後の世界では、このようなキャラクターが推奨されることになる。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう
コリント人への手紙第二 12:9 新改訳2017

逆に、イエスが復活した後の世界では、自分が強者であることを誇る発言は、ことごとく不穏な響きを帯びてしまう。それどころか、もし強者が力でもって弱者を虐げるならば、その行為自体が強者に対する決定的な滅亡の宣告となってしまうのだ。それは、最後の審判の日を待つまでもなく、いま・ここで・わかってしまう。。。

このような世界観は、幼稚園・小学校・中学校と、いじめを経験して来た自分にとっては、まことに居心地の良い世界観だ。だって、いじめっ子がいじめるといういじめの行為そのものがいじめっ子を永遠の滅びに定める、っていうことになるんだから。溜飲が下がる、というか、スカーっとする、というか。だから、自分が中学時代にクリスチャンになったことについては、ルサンチマンという防衛機制でみごとに説明できるよなあ、と思ってしまったりもする。けれど、それよりむしろ、心配になってくる。新聞を読んでいると、どこそこの国のだれそれとか、もう完全に自分で自分を滅びに定めてるじゃん! だいじょぶなの? って。

なので、新聞を広げ、ヨコに、聖書を広げ、手をついて祈る。どうか、どこそこの国のだれそれが、回心してイエスを信じ、救われ、その結果、強さではなく、弱さを誇る人間に生まれ変わることができますように、って。だって、その人物だって、生まれて来たときは無力な小さな赤ん坊で、その弱さのなかで、ただ泣くことしかできなかったわけだからさ。。。

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