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場の空気を読んで黙っているか、それとも、舌を抜かれても語り続けるか、対応はマチマチでも、祈って決めればマチマチでいいのかも、っていう話です。

松岡正剛の千夜千冊に影響されてか、単なるなりゆきなのか。自分は目下、千本ノックならぬ千本noteを続行しているわけだけど、自分にとってもうひとつのモチベーションになってるのが、新約聖書の使徒言行録 18:9 の次のコトバだ。

恐れるな。語り続けよ。黙っているな

でもねー。。。

今日の聖書の言葉を読んで、うーん、どうしよう、という思いになっている。だって、こう書いてあるんだもん。。。

今日の聖書の言葉。

無知な者も黙っていれば知恵があると思われ 唇を閉じれば聡明だと思われる。
箴言 17:28 新共同訳

黙ってたほうがいいのか。語り続けたほうがいいのか。どっちだろう。どっちにしよう。どうしよう。。。

クリスチャンたちの歴史の中では、黙っていることができなくて、舌を抜かれた、っていうひともいて。。。

なんとなく、今日、そのひとのことを考えている。

聖マクシモス(580-662)って言うんだけど。。。

どうして舌を抜かれることになったか、というと。。。

長い話を短くすれば。。。

クリスチャンたちの間で、イエスは人となった神、ということで、合意が形成されつつあった時代のこと。

それは、イエスは、ほんとうに神で、かつ、ほんとうに人だ、ってことなんだけど。。。

その合意形成に至るまでに、スゴイ議論があった。

どういうのかというと、イエスは神だ! いや、イエスは人だ! いや、神と人の両方だ! という主張のあいだで繰り広げられた大論戦。

この議論は、カルケドンで開かれた教会会議で決着を見た。

そこで合意されたのは、イエスのパースンのなかに、神性(神の性質)と人性(人の性質)が混合することなく・分離することなく・完全に結合している、っていうこと。

自分も、このカルケドンの立場を信じているんだけど。。。

ところがね。。。

議論は、そこで終わらなかったんだ。

次に、どういう議論になったか、と言うと。。。

イエスのパースンのなかで神性と人性が結合しているのはいいとして。。。

じゃあ、イエスのパースンのなかには、神としての意志があったのか? 人としての意志があったのか? それとも、両方の意志があったのか? っていう議論に移行したんだ。

イエスの性質をめぐる議論から、イエスの意志をめぐる議論になっちゃったわけ。

これはねー、ほんと、むずかしい問題。

だって、意志だからね。こころの内側の問題だもん。

まさか、精神に入り込んで確かめるなんて、できないわけだし。まあ、SFならサイコダイブとか、架空の方法はあるだろうけど。。。

東ローマ帝国の皇帝は、「神人イエスには神としての意志が1個あるだけ」という単意論を採用することによって、国論を統一したいと思っていた。

そこで、皇帝は根回しをして、ホノリウス1世教皇から「単意論でオッケー」というお墨付きを得たんだ。

教皇のお墨付きを得られたので、晴れて「単意論」が正統教義に確定。。。かと思われたんだけど。。。

そこで真っ向から反対したのが、聖マクシモスだったんだ。

形としては、皇帝と教皇に喧嘩を売った、空気読まないヤツ、ってわけ。

マクシモスは「両意論」と言われる立場を弁明するために論戦したんだけど。。。

両意論って、どういうのかというと。。。

イエスのパースンのなかには、神としての意志と、人としての意志と、意志が2個存在していて、2つの意志が一致協働することによって、単一の行為が生み出される、っていうものだった。

こりゃ、単意論とは、ぜんぜん違う。真っ向から対立するわけだよね。一見複雑で、わかりにくい考え方ではあるし。。。

マクシモスは「両意論」を弁明するため、語って、語って、語り続け、皇帝から「黙れ!」と言われても、黙らなかった。

怒った皇帝は、マクシモスが二度と語れないよう、舌を抜き、著述できないよう、右手を切り落とし、目で語れないよう、流刑にした。

コワっ(汗)

にしても、単意論と両意論。どっちが正しいんだろうね。。。

イエスの精神にサイコダイブすることはできないけど、でも、福音書を読むと、イエスの言動って、どうも「両意論」で見たときに、いちばん納得する、というか、腑に落ちる感じがするんだよね。

たとえば、ゲッセマネの園でのイエス。

これから十字架にかかろうとするとき、イエスは、血がしたたるような汗を流して、苦悶しながら祈った。

その苦悶って、まさに、イエスのパースンのなかで、神の意志と、人の意志がぶつかり合う葛藤だったんじゃないだろうか。。。

で、最後にイエスは「御心がなりますように」と言って、祈り終えた。

それは、イエスのパースンにおいて、人としての意志が、神としての意志に、完全に服した瞬間。神の意志と人の意志のあいだの一致協働がなされた瞬間だったんじゃないだろうか。

結果、十字架の道を進む、っていう単一の愛の行為が生じて、それによって人類は救われたわけだよね。

思うんだけど、両意論って、クリスチャンの意識のリアリティにも合ってるように感じるんだ。

クリスチャンはただの人間に過ぎないけど、でも、神の霊である「聖霊」が、そのなかに宿っているわけで。。。

だから、イエスが経験したような葛藤を、クリスチャンも生活の中で経験することになるんじゃないだろうか。

それは、人間としての自分の意志と、聖霊を通して示される神の意志とが、自分のこころのなかでぶつかり合う、っていう葛藤だ。

そう考えると、なんかオレ、毎日、ゲッセマネじゃね?

ところで。。。

皇帝から黙ってろ、と言われて、黙らなかったために、舌を抜かれたマクシモスだけど。。。

想像してみる。。。

もしかしたら、マクシモスの人間としての意志は「空気読んで黙っとこう」だったけど、聖霊を通して示された神の意志は「語り続けよ、黙っているな」だったかもしれないし。。。

逆に、聖霊を通して示された神の意志は「ことあげするな!」だったのに、マクシモスの人間としての意志は「このディベート、命かけて勝ちに行く!」だったのかもしれないし。。。

いずれにせよ、人の意志が神の意志に服するか、あるいは、神の意志が人の意志に退けられるかして、「黙らない」というマクシモスの単一の行為が実現したわけで。。。

これを自分に当てはめれば、自分、黙らなかったり、黙り込んだり、場面によってマチマチ、ってことになるのかもしれない。

そして、神の意志が優位して単一の行為が実現したのか、はたまた、人の意志が優位して単一の行為が実現したのか、ってことは、他人の目にはワカラナイ。

それは、神と自分だけにしかわからないヒミツなんだよね。。。

さて、どうしよう? 黙る? 黙らない?

ところで、その後、正統教義として確立されたのは、なんと「両意論」のほうだった。つまり、教皇が間違ってて、マクシモスが正しかった、ってことになるんだよねー。

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