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グラスゴー市の紋章を思う、コロナの夏。

頼みとしていたものが、みーんな無くなって行ったとき、万策尽きた、と思って諦めてしまうのか。。。

あるいは、頼みとしていたものが無くなったことによって、かえって、全然あらたな可能性へ、こころを向けて生きてみようと思うのか。。。

ここって、大きな分かれ目だよね。

今日の聖書の言葉。

いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず 羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。
ハバクク書 3:17-18 新共同訳

ほんとうに、ないない尽くしの今日の聖書の言葉だなあ、と思う。

だって、いちじくも無し。ぶどうも無し。オリーブも無し。小麦も野菜も無し。羊も無し。牛も無し。なーんにも無し。。。

なんにも食べる物、ない。。。どうすんのよ、これ。。。

そうであるにもかかわらず、今日の聖書の言葉は言う。

しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る

こ、この状況で、喜び踊るって?!

もうね、ちょっと、アタマがおかしいとしか思えないんだけど。。。

そこは、それ。気を取り直して。。。

頼みとしていたものが、みーんな無くなったとき、もう仕方ないから、神を頼みとするほかない。

で、神は無限のリゾースであるわけだから、神に依り頼むとき、神から無限の供給を得ることができるようになる。

理論的には、そういうことになる。

その結果として「主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る」ということになるはずなんだけど。。。

でも。。。

 ① すべてのものが尽きる
 ② だから神に依り頼む
 ③ 神からの供給を受け取る
 ④ 無限の供給を享受する

。。。という論理的順序が正しいとしても、ぜったいに②から③へ移行する間にタイムラグ、というか、待たされる時間というのが、あるわけであって。。。

 ① すべてのものが尽きる
 ② だから神に依り頼む
 <!-- いまここ、待ち時間 -->
 ③ 神からの供給を受け取る
 ④ 無限の供給を享受する

その「待つ姿勢」において、われわれは試されるんだよね。

ほんとうに待つことができるかどうか、っていうところを。

試される大地、北海道、どころじゃない。試される大地、オール・ジャパン、どころでもない。試される大地、オール・ザ・ワールド。。。

しかし、今日の聖書の言葉は、その「待つ姿勢」が飛びぬけている、というか、突き抜けている、というか。

今日の聖書の言葉を書いたハバククは ③ の「神からの供給を受け取る」という段階に行く前に、もうすでにスピリチュアルな境地として ④ の「無限の供給を享受する」という状態を先取りして、踊り始めちゃっている感じなのだ。

 ① すべてのものが尽きる
 ② だから神に依り頼む
 <!-- 待ちだけど④を見込んで踊り始める -->
 ③ 神からの供給を受け取る
 ④ 無限の供給を享受する

つまり、なーんにも無いのに、神の無限の供給を先取りして喜び踊ってしまうという構図。

なんだろうね。12月25日になるずっと前の8月上旬からクリスマスのお祝いを始めてしまうような意気込みだ。

今日の聖書の言葉を読みながら、自分はスコットランドのグラスゴー市の紋章を思い出していた。

とっても不思議な紋章なんだけど、その意匠に使われているのは。。。

泳いだことの無い魚
実を結んだことの無い木
歌ったことの無い鳥
鳴らされたことの無い鐘

。。。という、無いものずくめ、なんだ。

それらは、現在の物事の否定的な側面を示している、と同時に、未来への無限の可能性が開かれていることをも示しているんだ。

そうだ。自分のためにも、このグラスゴー市のやつみたいな紋章を作ってみよう。。。そう感じているコロナの夏。。。

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