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怒りに満ちている世界にあって、一番安全なものは何か? っていう話です。

前頭葉の衰えが進行するにつれて、怒りに対するブレーキがゆるくなっている今日この頃。みなさま、いかがおすごしでしょうか?

今日の聖書の言葉。

気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。
コヘレトの言葉 7:9 新共同訳

カール・セーガン流に言うと「怒り」は大脳の旧皮質の奥から生まれ、その部位は原始的な爬虫類と共通。その旧皮質をグルっと包んで抑えている新皮質こそ人間の「理性」のありかだから、怒りっぽい人間は爬虫類みたいなもの、ってことになるのかもしれない。

でも、自分の見る限り爬虫類ってみんなジーっと静かにしているよね? 怒鳴っているヤモリなんて見たことないんだけど。なので、この考え方は、たぶん間違いだろう。。。

仏教的に言うと人間の意識は3秒のレートでリフレッシュされるらしい。表層の意識が沈み込んで、深層でパケット(情報の最小単位)に分解され、意識の底の倉庫(アーラヤ識)に格納される。で、ふたたびパケットが取り出され、組み立てられ、浮上し、表層の「意識」が戻るまでのサイクルが刹那せつなと呼ばれる3秒間だ。

すると理論上、ぐぬぬっ、って怒りを感じても深呼吸して6秒数えれば、意識はリフレッシュされて怒りは消失するはず。。。なんだけど。。。ぐぬぬっ。。。3秒。。。ぐぬぬっ。。。6秒。。。ぐぬぬぬっ。。。12秒。。。消えないじゃん(笑)

自分は、どうして怒るんだろう、ってことを反省もし考察もしてみるんだけれど、よくわからない。たぶん、生きることは怒ること・怒ることは生きること、なのかもしれない。。。だって、死体は怒らないじゃん。。。

気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの

怒ってばかりじゃ愚者になっちゃうから、方策を考えないとね。なので、こう考えてみることにした。。。

怒るのは、怒る「理由」があるからだ。でも、理由だけじゃあ怒りはしないかもしれない。だって、理由なんて、いくらでもあるわけだから。。。

きっと、自分には理由に基づいて怒りを表す権利がある、っていう正当性への「確信」があるから、怒りを発動するのかもしれないねー。で、正当性を確信するほど、怒りは大きくなり、歯止めがきかなくなり、人生を飲み込み、周囲も世界も滅ぼして行く。。。

滅ぶのはイヤなので、まず「理由」をつぶしていこう。理由の多くは自分から見て問題だと感じた問題だ。問題だと感じるのは、さっきの仏教の話で言うと3秒のスパンで見ているから問題だと感じるわけで。。。

そこで仏教はスゲー長いスパンをひっぱりだしてくる。どれぐらい長いかと言うと無量大数阿僧祇劫むりょうたいすうあそうぎこうみたいに 1000億年の 1000兆倍ぐらいのスパン。それぐらい、じーっと座禅してごらん。そしたら、ほら、問題はぜーんぶ消えちゃったでしょ? 最大最後の問題だった自分すら消えちゃったでしょ? っていう。。。

これをクリスチャン的に言うなら、自分は神ではない、以上。ってことになるんじゃないかと思う。だって、過去・現在・未来を見通して、永遠の現在を生きている「神」に比べたら、前後3秒の範囲しか意識を持てない自分は、なにひとつわかってない存在、ってことになるから。自分は、なにもわかっていないことを素直に認めて、問題を「神」にお任せしたいと思う。

次に「確信」をつぶしていこう。怒って当然という自分の正当性へのゆるぎない確信があればこそ怒るわけであって。。。だって一瞬でも「オレが間違ってるかも」って思ったら、ひるんで、怒れないじゃん。。。

確信って、仏教的に言えば「執着」だよね。すべてが流転し、絶えず変化しているわけだから、かたちをとどめているものは、この宇宙には無い。なのに、どうして自分の正当性だけは永遠不変の固定物だと思いみなして、しがみつくのか? 手放しなさい、あきらめなさい、執着はやめなさい、ってことかなー。

だいたい「神」ですら怒る権利を手放しているわけだから。立場上ぜんぶを知っているはずの神は、この宇宙で唯一まっとうに怒る権利を保有している存在だと自分は思っているけれど、その神ですら「怒るの、やめた」と宣言しているわけで。。。証拠聖句が。これ。

主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることはなく
とこしえに怒り続けられることはない

主はわたしたちを
罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
詩編 103:8-10 新共同訳

しかし。。。怒る神がいなくなったら、世界はヒャッハーになってしまわないだろうか? 

そこで、現状、次のような福音が世界に伝えられている。

次の言葉は真実です。 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生きるようになる。」
テモテへの手紙二 2:11 新共同訳

自分的には、この福音を信じることによって一回「安全な死体」になって、そこから、新しい人間・ブランドニューな存在として復活することができる、と思っている。このプロセスを経るなら、自分は怒りから解放されるのだ。

その一方で、自分はどうしても怒り続けたい、と思う自分も、いる。この先、世界線がどう分岐するか、わからないけれど、そっちを選択してしまう自分も、もしかしたら、いるかもしれない。で、そういうふうにして自分の怒りが爆発した場合に、制御不能に陥らないよう、神は「諸権力」を今なお、世界内に配置しているんじゃないのかなあ、と思う *。

そうなるか・そうならないかは・この3秒間の自分次第だ。

註)
*  Cf. ローマ 13:1-7

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