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わたしが「生かされている」と思う日。【東日本大震災/癌/輸血】


僕たちは
いろんな誰かのおかげで、
生かされているんだと思う。


中学3年のある授業で、同じクラスの男子が言った。

私は、私たちは、いわゆる東日本大震災の被災地にあたる地域の出身だ。
そして、私たちにとっての中学3年という時期は、まさに東日本大震災があってすぐの1年間にあたる。
普通の学校行事をしてきた人からすると驚くかもしれないが、体育祭も文化祭も修学旅行も全部が震災中心だった。
震災でお世話になった全ての方々へのお礼を示すための行事、そんな1年だった。

私たちは知っている。自分一人では何もできなかったことを。
私たちは知っている。日本中の人々に助けられたことを。
私たちは知っている。世界中の人々に支えてもらったことを。

だからこそ出た言葉だったんだと思う。

震災当時、たくさんの支援をいただいた。
支援物資がなかったらご飯も食べられなかったし、
自衛隊や国道を管理する皆さんの迅速な計画がなければ大事な人を探すことも、家に帰ることもできなかった。
自治体の給水車が来なかったら水を飲むこともできなかった。

全部、誰かのおかげで成り立っていた。

私はその時、「自分達は生かされているんだ」ということを強く実感したが、別にそれを皆さんに強要したいわけではない。生かされているなんて気付けないほどに平穏で平和な日々を送れているのだとしたらそれはそれで素晴らしいことだとも思うからだ。
今日で震災から12年になるが、私もついこないだまでは、あえて「あー今日も生かされてるなぁ」なんて思うことはなかった。
しかし、それはある日、急に訪れた。
癌になったことだ。
これによって私はまた、「自分は生かされているんだ」と思う日々を送ることになった…


誰かの献血、誰かのドナー登録

私が今いる血液内科という病棟にはいろんな病気の人がいるが、血液内科という名前の通り、血液の病気で入院している。悪い細胞を倒すための抗がん剤は良い細胞も壊してしまう。すると酸素を運ぶヘモグロビンが少なくなったり、血を止める血小板が少なくなったりする。あまりに少なくなると危険なので、そんな時輸血をする。

「今朝の採血の結果見たんだけど、数値低かったので今日輸血させてもらおうと思います。」

毎日こんな会話が病室を飛び交っている。
この輸血だって、どこかの誰かの献血のおかげだ。
さらにいうと、ドナーの話もしょっちゅう話題に上がる。これもどこかの誰かがドナー登録してくれたおかげだ。(家族兄弟の場合もある)
こんな会話になった時、私は震災の時と同じで、「あ、生かされてるんだな。」と思わずにいられない。

輸血が一番強く感じるけれど、それ以外だってそう。
私は救急車で運ばれたので、救急隊の人のおかげで今生きていると言っても過言ではない。救急車の中で特に何か処置をしてもらったわけではないけれど、全く動けないし、痛すぎてまともに会話もできないし、お礼の一言も伝える余裕がなかったけれど、彼らが必死で病院探してくれて、私を優しく運んでくれて、寒いといけないからとダウンを持たせてくれた。
病院にきてからもそう。急に運ばれてきたのに救命、呼吸器、消化器、血液内科の先生みんなで連携してくれて1日でほぼ確定の診断まで出してくれて、運ばれた翌日には放射線科の先生も加わって生検もねじ込んでくれた。
看護師さん達もサチュレーションが低すぎてエラー鳴り止まない私を面倒見てくれて、痛みのせいか急に襲われる吐き気でナースコールした時も爆速で駆けつけてくれてすぐ点滴入れつつ背中をさすってくれた。
そうやってたくさんの人にさえられて今の私がいる。

私は今日も、
いろんな誰かのおかげで
「生かされているんだ」と、
身をもって実感しているところだ。



おまけ

入院中で時間もあって、今日は体調も良かったので、震災当時のことを軽くまとめました。気になる方は読んでください。


2011年3月11日 14時46分

地震があって私たちは校庭に避難した。人数確認もほどほどに、先生たちは「自転車あるやつは自転車かせ!」と叫んでいた。私たちの中学校は坂の下すぐのところまで津波が来るとされるエリアだった。
タイミング悪く、3年生たちは翌日の卒業式に備えて一足先に帰宅したばかりだった。先生達は急いで全員を呼び戻しに走り、無事全員引き戻した。
そんなこんなしていると雪がちらつき始めた。どよんとしていてすごく寒い日だった。

校庭から体育館に移動してからも余震は続く。
体育館の天井のライトが落ちてきやしないかと上を確認してはライトがあまりない場所に各々集まって過ごした。
先生のワンセグでニュースを見る。
津波が来たと報道されると体育館の空気は一変した。
恐怖で震える人、家族の安否を心配し泣く人。それはもうカオスだった。
私自身は、海の近くに住んでいる祖父母らのことが心配でならなかったことだけはっきりと覚えている。
父母は職場・現場的に津波の被害がないことは明らかだたったから全く心配していなかった。

その頃、地域の人たちが中学校に避難してくるようになった。それと同時に引き渡し(家族が迎えに来た人から帰宅すること)も始まった。私はそう簡単に迎えが来ないことはわかっていたので気長に待つ。だいぶ人が減ってきた頃、祖母がお隣さんと一緒に迎えにきてくれてその足で弟が通っている小学校に移動した。
小学校の体育館はもう、「the避難所」になっていた。人がいっぱいだった。でも知っている顔がたくさんあって安心したのも確かだ。祖父もいた。犬もいた。
その晩はのちに合流した父の車の中で父と弟と私の3人で過ごした。当時は全く認識されていなかった「車中泊」というやつだ。校庭にはこの時点でもういっぱいの車が停まっていた。今後ガソリンが不足することは容易に想像できたので、時たまエンジンをかけては車についているテレビでニュースを見た。

これで全部わかった。
知っているまちが壊滅的なこと。
隣町が火事になっていること。
国道も津波に浸かっていて家にはしばらく帰れないこと。

不思議と涙は出なかった。現実味がなかったからだろうか。
ただ一つ心配でたまらないことがあった。母方の祖父母たちのことだ。祖父母の家は宮古市田老地区という、過去に何度も津波に襲われ、万里の長城と呼ばれる防波堤があるまちにあった。多分家はもう流れただろうことがわかったから、ちゃんと避難してくれていることを祈るしかなかった。
じいちゃん、ばあちゃんだけじゃない、ひいばあちゃんもいたから心配はひとしおだった。
手をぎゅっとして、ずっと祈っていた。


まちはぐちゃぐちゃ、片側2車線の国道の上に家がある。

翌日?翌々日?具体的な時間軸はもうわからなくなってしまったが、父と祖父母の家の様子を見に津波を被ったエリアに向かった。ガバガバの父の安全靴を履いて、真っ黒でぐちゃぐちゃの道を歩いた。浜から流されてきた、たくさんの丸太を跨いで歩いた。目の前に広がるのは私の知っているまちの姿ではなかった。片側2車線の一番重要な国道45号線のど真ん中に大きな家があった。船があった。電線にはいろんなものが引っかかっていた。津波の威力は計り知れない。


「「生きる」をする。」ということ。

その後しばらくすると、電気水道はないながらも、生活が始まった。もちろん仕事も学校もない。
どの家も「生きる」をするのだ。

プロパンガスだったので鍋で米を炊いて食べた。家の後ろに沢水が流れているのでその水で洗濯をしたし、冷蔵庫代わりにもした。近くの湧水スポットや井戸水を汲んでいる人のところに水をもらいに行ったりした。
祖父母の津波で流された家を探しに行った。4、500mほどだろうか?家があったところとは全く別のところに2階部分だけが流れ着いていた。

この頃、いろんな情報が入ってくるようになる。
「誰々はまだ見つかんねーんだずー。」意:まだ見つかんないんだってよ。
「誰々は流されだずー。なぁしてあんなどごさ行ったんだべーか。」意:流されたんだって。どうしてあんなとこに行ったんだろう。
知っている名前がたくさん出てくる。子どもながらにこれは触れてはいけない話題だと悟った。


中学生主体の避難所運営

まだまだ学校は始まらないが、学校に来れる人は学校でボランティアしようとの声がかかった。家が落ち着いた人からどんどん学校に集まった。何をするかというと俗にいう「避難所運営」だ。やったことは避難所に関わること全て、なんならそれ以上だ。

  • 避難所で生活している数百人の人々のご飯作り

  • 避難所の掃除

  • 避難所に届く支援物資の仕分け

  • 地域で瓦礫撤去をしている方々へ配るおにぎりづくり

  • 支援物資の配給

  • 学校まで支援物資を取りに来れない方々のための出張配給所

これらを中学生主体で来る日も来る日も取り組んだ。届いた支援物資を分類し、各教室に分けてお店屋さんのように陳列した。1年A組の教室は服屋さん(服、肌着、下着、靴下)。1年B組の教室は食料品屋さん。1年C組の教室は赤ちゃん用品屋さん。物資が入っていた段ボールに書いたり貼ったり、まるで文化祭のようだった。
チラシのようなものを作って地域に配った。当日はオープン前からすごい人で、一瞬でものがなくなった。
人間の良い部分も嫌な部分もたくさん見えた。
一人25個までと言っているのに、ありとあらゆる理由をつけて誤魔化して多く持って帰ろうとする人もいた。取り合いもあった。海外で日本人は思いやりが・・・などと言われるが、現場はそんな良いイメージだけではない。
でも大概は、そんなに頭下げなくても大丈夫ですとなるくらいにお礼を言ってくれる人ばかりだった。
もちろん中学生だけでやったわけでもないし、この後ろには先生や行政の大人の献身的なサポートがあった。
でも、中学生だからできたとも言えると思う。取り合いの仲裁も、個数制限のカウントも大人がやるより子どもがやった方がいい。子どもに言われたら大人は渋々でも納得してくれた。
今は、この経験をさせてくれた大人達にすごく感謝している。


(これが震災1ヶ月くらいの出来事。全然ほんの一部だし、かいつまんでだけど残しておく。後で綺麗にまとめるかもだけど、一旦ね。)


先まわりしてここでもお礼述べておきます。ありがとう。Grazie mille!!