膜、分化、そして協調。「閉じているけれど閉じていない」ということ。
人体は様々な種類の細胞が複雑に組み合わさっています。心臓、脳、腸など目で見える臓器、筋肉や骨。混ざることなく、機能を分けて協調する。
あらためて「分化と協調」という原理が人体という複雑なシステムの基本にあることを知ると、この原理の射程は人体に留まらないように思えます。
たとえば家庭、組織、社会。「個人」が集まってできる「共同体」も人体のように「分化と協調」から成っています。
それは経済活動の文脈でいえば、「分業と交換」という様式を取りますし、組織で言えば「構成」という単位の細胞が集まり、ある明確な機能を持った「部署」や「チーム」という単位の臓器が構成され、その間を人や情報などの「流れ」が絶え間なく行き交いながら「組織」という一つの生命体が存在していると捉えることができます。
見方を変えると、分化するためにはある種の「境界」が必要で、これは細胞の「膜」に相当するものです。仕切りを入れるということですね。そして、仕切りを入れて中と外が混ざらないようにした上で、膜を通して必要な情報やエネルギーを交換していく。
そう思うと、この「膜」の構造がじつに興味深く、必要なものとそうでないものを瞬時に、なめらかに取捨選択していくことができなければ、全体の流れが滞ってしまいます。
「閉じているけれど、閉じていない」
分化と協調の根幹にあるのは、この一見矛盾しているような不思議な境界にありそうです。これはある意味で、人は社会における個人のあり方を捉え直す契機を与えてくれるように思います。
「個人だけれど、個人ではない」とはどういうことだろう?
こうした問い、メッセージを人体の成り立ちから浮かび上がってきました。
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