種、芽吹き、そして余韻。
いつどこで、どのようなきっかけで何が自分の内側から芽吹くのか。自分で意識的にコントロールして発芽させるというよりも、自分のまわりとの共鳴の中で偶発的に芽吹くものであるような気がします。
自分の内側に芽吹く可能性のある「種」はどれほど眠っているのだろうと考えてみると、それはそれはきっと数え切れないほどだと思います。自分でも気づかないうちに、意識という地面の奥深くの無意識で眠っている。
人は本来的に一人ひとりが「多様」な種を宿していて、その種一つひとつが固有の振動数でたえまなく揺れ動いている。ある種の固有の振動数と、自分が受け取ったこと、感じ取ったことに含まれる「何か」が共鳴して、その種が芽吹いた瞬間を「心に響いた」というのかもしれません。
「心に響いた」と感じたとき、自分にどのような種が芽吹いたのか、急いで言葉にしようとする気持ちを抑えて、その響きが消えないようにゆっくりと時間をかけて。響きが自然に消え入るのを待つのが大切なように思います。
「種の芽吹き」は余韻の中に。
高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』に書かれていた「種」に関する言葉、「多様性」を意味する「雑」を体現する雑草の戦略が私の中で共鳴して芽吹いたので、思うままに綴ってみました。
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