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意識から手放すということ。「中断」ではなく「発酵」へ。

外を歩いていたり、身体を動かしている時。ふとした瞬間に頭の中の霧が晴れるようにアイデアが浮かんできたり、バラバラだった点と点が線で結びつくことがあります。

この体験は「意識的にじっくり考える」ことの対極にあって、「無意識的でじっくりとは考えていない」というものです。集中しているようで集中していない、集中していないようで集中している。

たとえば、外を歩いている時に点と点が線でつながってくると、自分の内側を探るモードに入るのですが、一方で左右や前方から歩いてくる人の存在はハッキリと認識していて難なく歩いているのです。むしろ、何も考えていない時よりも周囲の人、物事に対する感度が高まっているとすら思えます。

点と点が線でつながり始めると、つながりの連鎖が次々に生まれてゆくことも多い気がします。このつながりの連鎖では関係ないように思える物事にも橋がかかることもあります。

「未完成」あるいは「半熟」の状態で、いくつも自分の内側にストックしておくと、連鎖しやすいように思います。ある程度「こうかも?」というところまで理解を深めたり、思い巡らせたら、一旦寝かせておく。

考えを寝かせるとは「意識から離す」ことなわけですが、意識から離れると「無意識」という器へと移り、「発酵が進んでいる」ということなのかもしれません。つまり「思考を意識から離す」とは「中断」ではなく「発酵」というモードに切り替えるということのように思うのです。

人体も「生命活動が止まらない」という制約条件の下で、たえず自らを作り変え続けているということを受けて、降りてきたままを綴ってみました。

生物構造の特異性としてもう一つ挙げておきたいのは、生命体ならではの厳しい制約に由来するもので、構築の途中で必要に応じて中断することができないという点である。人工物は、コンピューターでも飛行機でも、完成したときに初めて機能すればいいのであって、未完成の状態で何か意味のある役割を果たすことなど期待されていない。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

しかし胚の発生はそうではない。どの段階でも中断することは許されず、発生と生存が常に両立していなければならない。(中略)しかし発生中の胚が大動脈から枝分れした血管を作るときに、同じように血流を止めたら胚は死んでしまうし、血流を止めずに血管を切断したら仕事が終わる前に出血多量で死んでしまう。人体のすべてての基本システムについて同じことがいえる。発生過程でどれほど変化があろうとも、生存能力を妨げてはならないというのが絶対条件であり、当然のことながら、この厳しい条件は人体の構築方法に影響を与える。だからこそ、わたしたちの目には異質なもの、時にはあまりにも複雑なものに映るのである。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

あなたがあなた自身の始まりを知りたいなら、人が物を作るやり方から類推するのではなく、まったく違う世界へ足を踏み出さなければならない。胚を胚そのものの理屈で見る柔軟性をもたなければならない。それはあなたがまだ足を踏み入れたことのない領域への旅であり、既成概念を捨て、新しい考え方を受け入れていく旅になる。なにしろわたしたちが胚を作るわけではなく、胚がわたしたちを作るのだから。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』


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