意識から手放すということ。「中断」ではなく「発酵」へ。
外を歩いていたり、身体を動かしている時。ふとした瞬間に頭の中の霧が晴れるようにアイデアが浮かんできたり、バラバラだった点と点が線で結びつくことがあります。
この体験は「意識的にじっくり考える」ことの対極にあって、「無意識的でじっくりとは考えていない」というものです。集中しているようで集中していない、集中していないようで集中している。
たとえば、外を歩いている時に点と点が線でつながってくると、自分の内側を探るモードに入るのですが、一方で左右や前方から歩いてくる人の存在はハッキリと認識していて難なく歩いているのです。むしろ、何も考えていない時よりも周囲の人、物事に対する感度が高まっているとすら思えます。
点と点が線でつながり始めると、つながりの連鎖が次々に生まれてゆくことも多い気がします。このつながりの連鎖では関係ないように思える物事にも橋がかかることもあります。
「未完成」あるいは「半熟」の状態で、いくつも自分の内側にストックしておくと、連鎖しやすいように思います。ある程度「こうかも?」というところまで理解を深めたり、思い巡らせたら、一旦寝かせておく。
考えを寝かせるとは「意識から離す」ことなわけですが、意識から離れると「無意識」という器へと移り、「発酵が進んでいる」ということなのかもしれません。つまり「思考を意識から離す」とは「中断」ではなく「発酵」というモードに切り替えるということのように思うのです。
人体も「生命活動が止まらない」という制約条件の下で、たえず自らを作り変え続けているということを受けて、降りてきたままを綴ってみました。
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