見出し画像

「正しさ」の正しさ?

年末年始。穏やかなひと時。しっかりと「空白」をつくりたいと思います。

さて、今日は『偶然の散歩』(著:森田真生)から「「正しさ」の正しさ」を読んで感じたことを綴ります。

表題の「正しさ」という言葉はそれ自体も包み込むことのできるのだな、と思うと新鮮ですね。他にも、デザイナーである原研哉氏の著書『デザインのデザイン』があるように、デザインという言葉もそれ自体を包み込むことのできる言葉です。そのような言葉は、どこか「器」的だなと思うわけです。

「7たす5は、えっと、7たす5はねえ……11!」と言いながら、彼女は答えを書き込んでいく。
 もちろん7たす5は厳密には11ではない。
 だが、僕は彼女の間違いをその場で咎める気にはならなかった。
 むしろ、7たす5が11でもあり得る彼女の世界に興味が湧いた。
 自分がどれほど正しいと思っていることも、別の誰かにとって同じように正しいとは限らない。彼女にとって、7たす5は「およそ11」なのであり、それで彼女は満足しているのだ。

著者が友人宅を訪れた時のこと。小学校一年生になる友人の子供が宿題で算数ドリルに取り組んでいた時の一コマです。足し算の結果はどうなるのか。今でこそ「7+5=12」が唯一の正解であり、この世界は「正しい」とされる足し算の結果によって回っていると思っているわけです。

その中で「彼女にとって7たす5は「およそ11」なのであり、それで彼女は満足している」との著者の言葉から、「およそ」という言葉に込められたある種の寛容さを感じました。そして「彼女の立場に立つ」ということで寛容さが立ち現れる感覚も。

そもそも何かが正しいとは一体どういうことだろうか?
正しさの基準は一体どのようなものだろうか?

 三段論法はあらゆる論理的推論の基礎だが、それを「正しい」と答えるためには、言葉を文脈から切り離すことをまず学ばなければならない。それができない人にとって、三段論法は正しい、正しくない以前に、単に無意味でしかない。
 三段論法を自明と感じ、7たす5の唯一の答えが12だと思えるようになるには、そうした発想を正当化する思考法をまず身につける必要がある。
 結果として実現される「正しさ」は、唯一不動の正しさなのではなく、歴史を通して創造された正しさなのである。

本書で紹介されているのですが、かつて、アレクサンドル・ルリアという心理学者が、旧ソ連のウズベク共和国とキルギズ共和国の奥地で暮らす、読み書きのできない住民に「極北の降雪地帯にいる熊はどれも白い。ノヴァヤゼムリャは極北の降雪地帯にある列島です。さて、ノヴァヤゼムリャにいる熊は何色でしょう」という質問を投げかけたそうです。

その答えはどのようなものだったでしょうか?

「わからないなあ。黒い熊なら見たことあるけど、他は見たことがないから……」

「白い熊」が思い浮かぶ人にとっては予想外の答えかもしれませんが、自分が置かれた環境や文脈、経験から「熊」を切り離すことができなければ三段論法(演繹法)での回答は出来ない。でも、その人にとっては熊は黒い生物であり、それが彼にとっての正しさ。だとすると、「正しさ」というのは、人それぞれの主観的な世界に埋め込まれていると言えるのかもしれません。

「ある言語を母語とする人の認識・思考はその言語によって影響される」というサピア=ウォーフ仮説がありますが、認知や思考様式、歩んできた歴史や文化(ある種の社会的要請、共通の価値観)などの要素が無数に重なり合う中に「正しさの輪郭」が浮かび上がってくるのかもしれません。

主観の重なり合いの数だけ「正しさ」の可能性がある。では、どの正しさを許容していくのか、選択してゆくのか。「盲目的な正義に潜む危うさの種」を見つけるためには、それぞれの主観的な世界に入り込んでいく営みが必要なのかもしれません。

それは少々面倒なこともあるかもしれませんが、私は私、相手は相手と割り切るのではなく、割り切れなさの中にこそ「正しさ」があるかもしれない。正しさを線を引く営みとしてではなく、異なる正義の間にある割り切れなさを浮かび上がらせ、共有する契機として捉えることができるかもしれない。

 自身の心に照らして「正しさ」の感覚を磨くと同時に、他者にとっての正しさにもまた、寛容な人間でありたいと思う。

自分の心に照らして「正しさ」の感覚を磨く、とは一体どのようなことを言うのでしょうか。そのヒントになるのは、身体的な経験(主観)と「本当にそうなのだろうか?」と批判的に捉え直してみる・相対化してみることではないか。そのように思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?