見出し画像

表現とは「制約条件を課す」こと。表現の自由とは「制約条件を緩める」こと。

雲井雅人サックス四重奏団の定期演奏会に足を運びました。

クラシック、ジャズ、映画音楽、現代音楽まで。美しく調和した奏でられる多彩な音の世界に何とも言えない充実したひと時でした。

美しさ、調和、遊び、表現、可能性。

帰宅の途につきながら、こうした言葉が降りてきたので書き留めました。そしてふと、「自由とは何だろう?表現とは何だろう?」という問いが浮かんできたので、極上の演奏を思い返しながら綴ってみたいと思います。

表現とは「制約条件の緩和による可能性の提示」と捉えることができるように思いました。「世界にはこんな見え方があるよ」という問いかけです。

今回の演奏会では、サックスという「楽器」の制約、奏でられる「楽曲」という制約があります。また、音楽を奏でる「奏者」という制約があり、奏者による演奏が「イメージ(想像)」「身体操作(具現化)」の組み合わせから成るとすると、イメージと身体的な制約もあります。

こうして考えてみると、まず「制約条件のない表現」は存在しないのではないでしょうか。言い換えると「無条件」の表現は存在せず、可能性に満ちた世界に対して何かしらの制約をかける、あるいは多様な角度から眺めてみることで具体的な像が現れる。それを「表現」と呼ぶのではないか、と。

「このような表現できるのか…」という感想を振り返ると、経験の蓄積の中にそのような表現の記憶がなかったとも言えますし、あるいは「サックスはこういうもの」という暗黙の制約をかけていたかもしれないとも思えます。

「一音一音の美しさ・調和」という音楽全体を包み込む枠組みの中で、その枠を壊さないように演奏に対する制約条件を緩和していた。それが「遊び」であったり、「自由」というフィーリングにつながったのかもしれません。

頭の中で思うだけでは動かない身体。動かしてみても想像どおりに動くとはかぎらない身体。

練習とは何かを積み上げてゆくイメージがありますが、「積み上げる」とはイメージと行動のフィードバックを繰り返しながら選択肢・可能性の幅を狭めていく、言い換えれば「制約条件を課してゆく」ことであり、一方では、フィードバックの中で「こんなこともできるのかもしれない」と「制約条件を緩めていく」営みでもあるのかもしれません。

表現の自由。緊張と弛緩。

「何でも自由にしていいよ」と言われて逆に悩んでしまうときには、逆説的ですが「制約を決める」ことから始めてみてはいかがでしょうか。その時にどのような制約を課すのか。その制約条件の課し方に「個性」が表れてくるのかもしれません。

あらためて素晴らしい演奏を届けて下さった奏者の皆様に感謝の気持ちを込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?