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仕立て屋にて

アレはまだこの家にいるのだろうか。
眠りから覚めた私が最初に考えたのはそれだった。
窓から降り注ぐ白色の朝日を受け、ベッドの上で上半身だけを起こしていた私は、小さなあくびをしながら少しだけぐらつく頭を無理矢理動かし、部屋から出た。窓から見える空には雲しかない。洗面台で軽く顔を洗うと、まどろんでいた状態から完全に解放される。頭がはっきりしている事を確認して、私はアトリエに向かった。いつもはさっさと朝食をすませるが、今はアレの存在が気になる。
アトリエの扉を開く。蝶番がさびてきているせいか少し引っかかる。
アトリエの窓にはカーテンがかかっている。朝日の入らない部屋は薄暗い。私は目の前にある一つの窓に歩み寄り、カーテンをどかして、窓を開けた。新鮮な空気と光が部屋にはいってくる。深呼吸をして、部屋の中を確認するように振り向いた。
アレがいた。
アレ。
朝一番でアレの姿を見るのは、正直気持ちがいいとはいえない。あまりにもこの部屋にはそぐわないからだ。
アレは光の差していない部屋の向こう半分の場所で、影に身を隠すようにして長い体をとぐろのように巻いて鎮座している。そして私には目もくれずに、そこに置かれた作品をまだ吟味していた。
「おはようございます」
一応朝の挨拶をする。
「オ…ハヨウ…ゴザイマ…ス?…ああ、オハヨウゴザイマスか」
少し遅れて反応を示す音が私の耳に届いた。作品たちに降り注いでいた三つの目が発する視線が私に向けられる。同時にアレは体のとぐろを解く。巨体に隠された窓が、ソレの後ろから現れた。

その日は朝から雲一つないほどの快晴だった。
私の家と職場は多くの店が並ぶ端の端…からもう少しだけ離れた所にある。服の仕立てと、ついでに小物の修理を生業としている。「だから別に商店街の中に構えなくてもいい」とこの仕事を以前していた祖父が言っていたが、私もその通りだと思う。必要になったら客の方から来てくれるからだ。なによりここは静かで作業が捗るので良い。祖父から貰ったこの家には父も母もおらず、この店は私一人で切り盛りしている。
朝の開店時間からこの建物の店の部分で仕事を受けつつこなしつつ、という作業をしていると、昼頃に知人の男が訪ねてきた。男からの仕事内容は使い古した服の縫い直しと…雑談だった。
「最近、あそこの警備してるの嫌なんだよなぁ…。仕事かえたくなるよ。そんな余裕無いけどさ」
仕事の依頼と同時にこう切り出した。
あそこというのはこの男が警備員として勤めている美術館の事だ。町の中央から少し外れたところにある古くて小さめの美術館で、この町のさりげないシンボルとなっている。さりげなさすぎて、いっそ地味といってもいい。
この男は警備員の仕事について「有事の時でなければ楽だから好きだ」と言っていたので、そんな事を言い出すのは意外だった。
「…ほう。珍しい。久しぶりに手強い不審者でも現れたか?」
「いや、違うんだよ…。ある意味そうと言えるかもしれんが、ちょうどいいや、聞いてくれ」
「なんだ」
男の話を要約するとこうだ。
夜見回りをしていると、時々足音が聞こえる。その足音がまた妙で、大量の生き物が小走りするような足音らしい。足音の主―主達かもしれない―は一応足音を忍ばせているようだが、なにせ多くの足音が一斉に聞こえるので、嫌でも気づく。気味が悪い。姿形は見えず、足音はいつも自分の天井、壁の向こうから聞こえる。走って音の方へ向かっても影すら掴めない。そのため正確な大きさは不明。しかしおそらく犬よりは大きい。
「そんなものが蔓延っていたら大問題じゃないか…。あそこは美術館なんだぞ?作品に傷がついてしまう」
以上の話を聞いて真っ先に私の口から出た言葉がそれだった。
私はあの美術館は好きだ。地味かもしれないが、そのおかげでまた静かで安らかな雰囲気が漂っていて、それが心地のよい空間を作っている。だから自分の知らないところでそんな下手な怪談めいた事が起こっていたなんて信じ難かった。実際、警備員であるこの男からの話でなければ信じなかっただろう。
正直不愉快だ。
「そこに話題を移すところがお前らしいよな」
警備員の男は笑い声を混じらせながらそう言った。
「そうか?」
「そうだよ。…まぁ、これはお前の言う通り大問題だ。だから、俺は何度もこの館を見回った。屋根裏も地下室も保管庫も。ホコリ一つ見逃さないようにな。だがな、さっぱりだった!だいたいな、あんな飲食物の持ち込みを厳重に禁じている場所に生き物が住み着く事自体おかしいと思わないか?」
「そうだな」
「な?」
餌が無いからな。ついでにいうと、人間という線もないだろう。
こいつが仕事を嫌に感じてしまうほどその足音は長い間続いているらしい。作品を転売のために盗みを働く輩だったら、まず足音はたてないよう努めるだろう。とりわけ多くの人間―これだとますます目的が不明だが―だったとしたら、まず目撃者がいる筈だ。警備員はこの男の他にもいるのだから。多くの影があれば目につくだろう…もしかしたら一匹かもしれんが。…………。一匹?
「それでさ、ソイツの姿形を想像だけでもして追い出す為の考えを張り巡らしてみたわけだよ。俺なりによ」
「そうか」
「それで、音を良く聞いてみたんだが、なかなか気味の悪い足音だから、聞く度に鳥肌がとまらなくなってさ」
「姿形は想像できたか?」
「もう、したくねぇな」
「だろうな」
もし、今の自分のこの考えが、この姿形についての想像が当たっていると考えたら、私も仕事を新しく探そうとするだろう。

その日は仕事が多めに入ってきたので―ほとんどが小物の修理だったが―少しだけ早めに店を閉めた。軽く掃除をして、アトリエに入る。一階の仕事場の横にある部屋で、アトリエとは名ばかりの空間である。窓が二つ、机と椅子、三つある棚には材料やら作品やらを乱雑に置いてある。ここは仕事とは別で趣味で物を作るときのための部屋だ。壁にはつい先日購入した絵を飾ってある。太陽の光が直に当たらないように場所には気を使って飾った。光がとても美しく描かれた港の絵で、同じ作者の絵が美術館に飾られているはずだ。日の当たらない場所で、その絵は輝いて見えた。
久しぶりに見に行ってみるか。
そう思うと、私はさっそく美術館へと向かった。あるいて四十分ほどの場所にある。
これから入館してもせいぜい五十分ほどしかいられないだろうが、館内の作品はもう全て見ているので別にいい。
ただ何となく家にある絵と同じ作者の絵を見に行きたいと思っただけだった。
入館料は無料だ。そのかわり募金箱のような物が設置されていて、美術館の経営を応援する人は美術館に募金ができる。私はそこに一枚だけコインをいれた。
人はほとんどおらず、通路に自分の足音だけが静かに響く。部屋に入ってくる光の量は器用に調節されていて、暗すぎる事も明るすぎる事もない。大小さまざまな作品のつまった静かな空間。昼頃には人でにぎわうが、閉館近くなるとこれほどの違いがある。
家とは違って落ち着ける場所だ。こんな場所に得体の知れない者などいるのだろうか。
そんな事を思いながら目の前の作品をぼんやり眺めていると、どこからかたくさんの足音が聞こえた気がした。
先ほど聞いた話の足音だろうか、と考えたが、あくまで「気がした」というだけなので私は無視した。
「閉館時間だよ」
不意に、朝の知人とは別の警備員に声をかけられた。しわくちゃな顔をした老人だ。
「アンタよくここに来るよねぇ。この絵が好きなのかい?」
親しい友人と対話するように、老人の警備員は話しかけてきた。私は友人ではなく、ただの常連客だが、この警備員は分け隔てなく接してくるようだ。
「ええ。この絵、というより、この作者の絵が好きなのです」
「ほう。…もしかして、同じ作者の絵を持っていたりするかい」
「ええ。この間、購入しましたよ。少々値が張りましたけどね。いい買い物をしました」
「おお。素晴らしい買い物ですな。またこの絵に会いにきてください。」
「はい」
私は仕事でよく使う笑顔を警備員に向け、別れを告げると、美術館から出た。
帰ったら予定していた仕事をこなして、さっさと寝よう。そう考えながら私は家路についた。
日が落ちるのが速くなってきたせいか、この時間になるともう道はほとんどが闇に包まれていた。冷たい空気が頬をかすめていく。昼にいた人々はみんな各々の家に収まっていくのだろう。
人通りが少なくなりつつある道を歩いていると、自分の頭上…右斜め上、右に並ぶ家々の屋根のあたり…から、沢山の足音が聞こえた気がした。軽く一瞥するが、とくになにもなかった。あたりまえか。思っていた以上に昼の奇怪な話に影響されすぎているみたいだ。帰ったらとっとと寝よう。明日になればいくらかはマシになるはずだろう。

夜。ベッドの上で横になっていると、不意に何かが落ちる音がした。
些細な音だった。完全に眠っていたらきっと気がつかなかったであろう。
泥棒か!
私は急いで身を起こすと、深呼吸をして足音を大きく出さないようにゆっくりと歩みを進めた。寝室をでて、外を確認する。
「アアアアッ……」
突然一階の方から小さな悲鳴がきこえた。まるで蚊のなくような、それでいて恐ろしい物を見たとでも言わんばかりの驚愕と絶望が入り交じったような悲鳴だった。アトリエの方向だ。
なんだ?
声と音の方向へゆっくり足音を立てないように、しかしなるべく急いで向かった。
闇に包まれた家の中は、月の明かりのおかげで薄く照らされている。周りのちょっとした気配にも反応できるように神経を集中しながら目の前をゆっくりと進んだ。
視界の先に半開きになっているドアがある。あれだ。向かう途中で、武器として役に立つかはわからないが念のためにと軽い木製の椅子を持ち、部屋に入った。
そこには、おそらくこの家に侵入して来たのであろう黒い服装に身を包んだ細身の男が宙に浮いていた。手には何も持っておらず、腕と足をだらりとぶらつかせている。血の気が失せた青ざめた男の顔は白目を剥き、口から泡を吹いている。
その男は、アレに捕まっていた。
アレは、節足動物のようだ。しかし本来の動物よりも数十倍は大きな体をしている。おそらく体長は七、八mほど。ムカデのように表面には黒々とした甲羅が並んでいる。甲羅はつるつるとはしておらず、ぼこぼことしており、おまけに何かが藻の様に浮いている。頭にあたる部分からは細くて骨のような物が突き出ており、その先には菱形の石のような何かがくっついている。そしてその菱形を中心に、花弁が並んでいる。…いや、あれは目のようだ。6枚の花弁の中に、3つほど目の様な物が混じっているように見える。静止状態でその目を見ると、花弁に張り付いた目の模様にみえたが、それは突如こちらに向けられた。目の模様、ではなく正しく目にあたるものなのだろう。私をぎろりと睨んでいる。残り三枚の花弁には黒い模様が点々とついていた。長い体の左右に並んでついている足はどう見ても左右で数が合ってない。頭に近い部分の5本の足を巻き付かせるように、黒い服の男をもちあげていた。訳が分からない姿だ。
第一印象は歪で醜い。そう思った。
私は呆然とソレを見ていた。
何だコレは。なんでこんな物が私の家にいるんだ。
「おまえは…なんだ…?」
ぽつりと言葉がもれた。
「我、我、我はなんだ…。我は、…我?名前か?我が名はボダイ。…と呼ばれていた。そう呼んでくれてかまわない。深淵と狭間を漂流する物。空間のバガボンドと同類は言う。同類?…おそらく同類」
酷くまとまりがない返答だった。人と会話した事なんてまるでないのだろう。とりあえず名前はわかった。
「…私はシャンクだ。その腕に…足か?どっちでもいいが、ボダイさん、その男をおろしてやってくれないか」
どう声をかければいいのか解らなかったので少し投げやりな言葉になってしまった。大丈夫だろうか?
「ボダイサンじゃない、我はボダイ。しかしボダイサンと呼びたいならそれでも構わない。サン、とは、さん、か?」
とくに気にされてはいないようだ。
ボダイは男を床の上から1mあたりのところで落とした。下ろしはしなかった。ドサリ、と音がする。幸い、何か袋のような物がクッションになったおかげか、頭を強く打つ様な音はしなかった。
さて、どうしようか…。
とりあえずボダイは特に何をするでもなくこっちをじっと見つめているだけだったので、ボダイへの対応はひとまず置いとくことにした。
私は泥棒と思われる男の胸ポケット、ズボンのポケットなどを調べて、自分の家の物が盗られていないか確認だけした。ポケットには何もなし、と…。ところで男の頭を守った見慣れない袋はどうやらこの男の物みたいだ。袋を調べると私のキッチンの食器がいくつか入っていたので返してもらった。さらに袋の中には大きめの布と紐がはいっていた。この用意周到な様子をみると、盗みは初めてではないようだ。
男は相変わらずぐったりしているが、面倒くさくなった私は男をその布と紐でぐるぐる巻きにすると…窓から外に放り出した。寒い季節だが暖かい布のおかげで凍死する事はないだろう。朝になっても転がっていたら警察に通報するとしよう。
さて、もう一つの侵入者はどうすべきか。ボダイはもうこっちをむいておらず、壁にかけてある港の絵を吟味していた。この訳の分からない巨大な生物からは、盗みを働く様子は見て取れない。私は一旦キッチンに向かい、マッチを一本擦ってランプとストーブに火をつけた。そのままお湯を作ると、暖かい紅茶をいれ、ランプと紅茶を持ってまたアトリエに戻ってきた。
ボダイはまだいた。
さっきと寸分違わぬ姿勢で絵を吟味していた。ここでようやく私はため息をついた。
どうやらこれは夢じゃなさそうだ。

ランプの中の小さな明かりで照らされた部屋の中に、私とアレがいる。アレの名前はボダイというらしい。私は紅茶を一口すすると、そのボダイに質問をした。
「作品を…その絵を見ているのですか」
「ああ」
ボダイは絵を見たまま応えた。夢中のようだ。絵を穴があくほど見つめている。
「美術館の沢山の足音の正体は貴方だったんですね。」
ボダイの体に並んでついている大量の足を見て私は問いかけた。
「アナタ…二人称…ああ…ビジュツカンとはあそこか。我は確かにそこにいた。」
なるほど、こんなものが美術館にいれば、大量の足音がきこえてくるわけだ。
次に私は一番気になる質問を投げかけた。
「それが、何故ここに…私の家に?」
「貴様、ビジュツカンで言っていただろう。この絵と同じ作者の絵を持っている、と。我はそれが見たくなった。だからここに来た。」
「うわぁ」
うわぁ。ほんの軽い会話だと思っていたのに、あれは思わぬ失言だったわけだ。壁に耳あり障子に目あり、か。招かれざる大きな珍客を呼び込む事になるとは。
紅茶を飲んで、少しでも落ち着こうとした。
しかし、ボダイは見かけによらず、とても大人しい輩のようだ。質問に応じ、先ほども泥棒の男を離せといったらすんなりおろしてくれた。案外素直なのかもしれない。
ボダイは相変わらず絵を見ていた。わたしは紅茶を片手に持ちながらその様子眺めていた。なんとなく、他愛のない会話を試みる。
「絵のどこが好きなのですか?」
「美しいところだ」
「美しいものが好きなのですか?」
「ああ。美しい物は素晴らしい。己の醜さを一瞬でも忘れさせてくれる。人の手でこんなものを作り出すのはとても素晴らしい。」
「己の醜さを、か」
なるほど。これは筋金入りなのかもしれない。不意に、ボダイの頭についている花弁が…目が一斉にこっちを向いた。
「スゴイな、貴様は…」
突然褒められた。
「はい?」
「大抵の者は我を見たら直ぐに発狂してな。会話なんてまず成り立たなかった。」
こころなしか、ボダイは笑っているように見えた。自分よりも下位のものを卑下するかのような嘲笑う感じではなく、面白いものを見つけた、とでもいった感じだ。私の事が面白いのか?
「まぁ、そんな美意識の欠片もない恐ろしい姿のものを見たら発狂するでしょうね…」
先ほどからの歯に衣着せぬ態度にこちらも同じように返してみる。
「全くオブラートに包まずに人間に言われる日が来るとは…」
「自覚しているのでしょう」
「している」
「じゃあいいじゃないですか」
「そうだな…」
心なしか少し拗ねているように見えた。なんだ、こんな反応をするのか、意外だ。こいつのほうこそ面白いのではじゃないか。そう思いながらカップに目を落とすと、口角を微妙にあげている自分が映っていた。
「絵の鑑賞を堪能したら、…お好きにどうぞ。この家の物は持ってかないでくださいね。」
カップの紅茶は飲み干すと私は立ち上がり、部屋を後にした。ランプの灯は、中の蝋燭がもったいないから消しておいた。暗い中でも絵を吟味し続けたボダイのことだ。きっと暗闇など気にしないだろう。
振り返るとボダイは絵の鑑賞を再開していた。二階の部屋に入ると、扉は閉めて、ベッドの上で横になる。
ボダイは、明日になれば消えているだろうか。
私は目を閉じた。

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