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変わる彼女と、変わらぬ世界

 11月も終盤になってくると、新潟の山側の地域では雪が降り始める。しんしんと降り続くそれは、夜の静けさと相まって、冬の寒さを否応にも押し付けてくる。息を深く吸う度に、痛いほどに冷たい空気が肺を満たす。氷点下の外気に晒されてすっかり冷えきった手に息を吐きかけて、両手をこすり合わせる。

オレンジ色の街灯を道しるべに、降り積もった雪をサクサクと鳴らしながら、帰り道を歩く。吐く息の白さとは裏腹に、街灯以外の明かりを失った夜道はただただ雪を降らせるばかりで、あらゆるものを雪の下へと隠してしまう。

 いま勤めている中学校は今年で8年目。今年度の終了に伴い異動が決まっていることから、ある種の達成感を抱えながら、日々の業務に勤しんでいる。今年度は例年と異なり冬に教育実習生を迎えるらしく、指導教員がパタパタと忙しなく動いている。冬が近づくこの季節は、ある生徒のことを思い起こさせる。この学校に勤めた最初の年の、朝早い時間帯。生徒はほとんど登校してこないような時間にいつも音楽室にいた彼女のことだ。

*****

 7月の蒸し暑い日だった。その年は返り梅雨で、梅雨明け発表後もズルズルと雨が降り続く年だった。じんわりと滲む汗で貼りつくシャツに不快感を覚えながら、学期末のテストをどうするかと頭を悩ませていた。

 いい加減に灰色の空を見るのにも嫌気が差してきたころ、ある生徒の話を耳にした。その生徒は吹奏楽部に所属するわけでもなく、個人でレッスンを受けているわけでもないが、毎朝早く学校に来ては、職員室から音楽室の鍵を借りていくらしい。最初は特に気にも留めなかったが、隣に吹奏楽部の顧問がいたので、会話のきっかけにでもなればと思い聞いてみた。

「あの宮本先生、最近生徒が朝に音楽室使ってるらしいですけど、それって大丈夫なんですか?」

「大丈夫ってなにがですか?」

「いや、生徒に自由に音楽室使わせるのもですし、備品の紛失とかなにかあったら問題になるじゃないですか。」

「ああ、そういうことですか。彼女素行も真面目ですし、ちょっとした事情もありますので、私が許可したんです。7:30からの30分だけとちゃんと利用時間も決めてありますし、ピアノ以外は使わないっていう約束ですけどね。」

「宮本先生ってその生徒と関わりあったんですか?」

「そんな大したものじゃないですけどね。彼女のお母さんと交友があるんですよ。それでたまに喋ったりするぐらいですかね。」

「あっ、そうなんですね。ちなみになんですけど、事情っていうのは…?」

「生徒のプライバシーに関することですし、彼女もあまり詳しくは話したくないようなので、詳細は私の口からも言えないですけど、いわゆる家庭の事情ってやつですよ。まぁ、昨年度の3月に許可しましたが今まで何の問題も起きてないので、彼女を見かけても注意とかはしないであげてください。」

 いったいどんな生徒なのだろう。見てみたいとも思ったが、許可を取ってあるなら特に問題はないのだろう。先生の話に「わかりました。」と返事をして、期末テストの作成を再開する。テストの頃にはこの長雨も終わっているだろうか。それを期待しながら、ひとつ、ふたつ、みっつと汗で貼りつくシャツの袖を捲った。

 音楽室の生徒については、その後宮本先生から職員会議で説明がされ、彼女についての事が話題に上がることは徐々に無くなっていった。

*****

 そんな彼女と初めて話したのは、初めて彼女の話を聞いてから数ヶ月後のことだった。

 11月半ばの、ひどく寒い日のことだった。例年より早く急激に気温が下がり始めたので、暖房を入れましょうと、職員会議で決まった日の翌日のこと。各教室の暖房のスイッチをつけて回っていた時に、音楽室でピアノを弾いてる彼女を見つけた。寒さで頬を赤らめながら、どこか寒さも楽しんでいるかのように鍵盤を指でなぞっていく。その姿にほんの数瞬、目を奪われた。防音ドアに遮られほとんど聞こえないはずの音が頭の中で反響し続けていた。

演奏をずっと聞いていたい気持ちを抑えながら、しかしスイッチを入れて回らなくては仕事も終わらないと、耳障りな音を立てる重い扉を開けて、

「おはよう。」と、とりあえず朝の挨拶をした。

 いきなり声をかけられた動揺か、それとも演奏を聞かれていたことの気恥ずかしさからなのか、少し上ずった声でたどたどしく返事をする彼女は、やっぱり普通のどこにでもいる子という印象でしかない。

演奏の邪魔をしたくなかったのと、ほぼほぼ関わりのない先生と長話しするのも嫌だろうと思って、暖房のことだけ伝えて部屋を出ようとした時に、ついでだからと、

「なんでいつもこんな朝早くに学校に来てまでピアノを弾いてるんだ?」

そう聞いてみた。

彼女にとってみれば、ピアノを弾いているのを知られていたことすら初耳だったのだろう。一瞬ドキッとした表情を見せた後、彼女は答えを探すかのように少し時間をおいてから、

「えーっと、別に、特に理由なんかないですよ。最初はただ単に朝早く学校につきすぎちゃったから、やってみただけなんですけど、思ったよりも楽しくて。それで......」

そう答えた。

それだけで続けるものかと疑問に思ったものの、あまり詮索するのもデリカシーがないだろうし、これ以上話すこともないから、「それじゃ……」と、音楽室を後にしようとしたその時、

「あっ、でも、なんとなくですけど、雨の音とか風の音とか、そういうのをピアノで鳴らすのは、自分だけの世界を作るみたいで好きです。」

「世界?」

「はい。小説とか映画みたいな?オリジナルというかなんというか、自分が見て、聴いて、感じものを自分なりの音にするというか、そんな感じです。あはは、すいません。なに言ってんだーって感じですよね。」

言い終わったあとに、寒さとは別の理由で赤みを増した顔を隠すように目をそらした。その姿に自分の学生時代が重なってつい、

「いや、わかるよ。先生もな、大学生のころは友達とバンドなんか組んだりして、自分たちで曲つくったりしてたよ。懐かしいなぁ……。まぁ、ほとんど好きだったバンドのコピーみたいなものだったから、オリジナルって言えるかも怪しいけどな。でも、自分で歌詞書いたり、メロディー作ったりするのは楽しいよな。」

なんて、自分の思い出話をしてしまった。いきなり思い出話なんかして引かれるかと不安になったのとは反対に、

「そう、そうなんですよ!まぁ、ピアノなんて習ったことないので下手っぴなんですけどね......」

ぱっと顔を上げた彼女は、そう言って照れ隠しのように少し笑った。

初めてちゃんと聞いた彼女の声は、同年代と比べて落ち着きのある、けれども少し影のある、冬を音にしたような声だった。

 その日以降も毎朝音楽室からは、変わらずピアノの音が聞こえた。ピアノの音も仕事の内容も変わることはなかったけれども、楽しそうに演奏する姿を思い浮かべると、朝の見回りに少し色が増えたようで、早朝の寒さが和らぐように感じた。

*****

 そんなある日、いつものように朝の見回りをしていても、自分の足音が響くばかりで一向にピアノの音が聞こえてこない。只々キュッキュと靴音ばかり響く廊下は、普段の喧騒が嘘のように人の温かさを感じさせなかった。

今日はまだ来ていないのだろうか。そんなことを思いながら音楽室のドアを開けると、案の定、そこに彼女の姿はなかった。本来の姿に戻っただけのはずなのに、音を失い静まりかえる教室は、気温が1℃か2℃下がったかのように寒気がした。それでもきっと学校には来るだろうと、大して気に留めずに暖房のスイッチを入れて音楽室を後にした。扉を後ろ手に閉めたとき、ギィィーという耳障りな音だけが、いやに大きく響いた。

それからの数日は、彼女は音楽室に現れたり、そうでなかったりを繰り返していた。音楽室にいる日は、普段と同じくピアノを弾いて、時間になったら職員室に鍵を返しにくる。そうでない日は、朝早くに学校に来ても音楽室にはよらずに教室で本を読んでいたり、学校自体を休むようになった。

あんなに楽しそうにしていたのだから、ピアノに飽きたとは考えにくく、特段いじめられているなんて情報も入ってきていない。学校で見かけるときには友達と仲良くしているから、友人関係でいざこざがあったとかでもないのだろう。

音楽室を使うかどうかは彼女の気分次第だし、あまり気にしすぎてもどうしようもないかと、彼女のことは頭の片隅に追いやって、授業の準備に取りかかることにした。

 翌日、いつものように見回りの一環として音楽室に行くと、そこに彼女の姿があった。久しぶりに見た姿に安心感を覚えるのも束の間、彼女はピアノの前に座るだけで、一向に弾こうとはしなかった。

何かあったのかと思い、音楽室に入り暖房のスイッチを押すと一緒に、

「今日はピアノ弾かないんだね。」

と、心配をなるべく悟られないように尋ねてみた。

うつむいたまま顔をあげない彼女は、なにか言おうと口を動かし、それでもどこか諦めたようで、代わりに、

「そうですね、ちょっと気分が乗らなくて......」

と目じりを下げながら困ったように笑った。

「何かあったのか?」

何かあったに決まっているだろうと、自問自答しながらも、それ以外に言える言葉もなく、無力な言葉を問いかけてみた。

「別に大したことじゃないんですよ。ただ、最近お母さんたちがよくケンカしてて、それで、ちょっと疲れちゃって…」

「お母さんたちがケンカって、その、あんまりご両親仲良くないのか?」

「あー…どうなんでしょうね?しょっちゅうケンカしてますけど、普通に会話してる時もあるし、かと思えば朝からお互いに嫌味を言い合ったりしてるし。前までは仲良かったはずなんですけどね。」

こちらとは目を合わせずに、何でもないことのようにそう話す彼女は、ピアノから指を離すことも鍵盤を押さえることもせずに、ただただ鍵盤を右に左になぞっている。何度も何度も身を置く場所を探すように、けれどもどこにも引っかかることのない指が白い河の上を流れていく。

何かを諦めたように、指が鍵盤から滑り落ちた。彼女の腕が自らを留めようとする力を失い、ダランと振り子のように宙に揺れるのと同期して、どの音階かもわからない音が音楽室に霧散した後、封を切ったかのように彼女の口が動き始めた。

「ほんとに大したことじゃないんですよ。私が中学校にあがったくらいからかな、ケンカが増えてきて、ケンカするたびに泣きながらお母さんが私に言うんです。『お父さんなんてもう嫌だ』『あなたはわたしの味方よね』『お願いだからお父さんみたいにはならないで』って。」

「いい迷惑ですよね。私にとってみれば別にお父さんもお母さんも小学校のころから何も変わってないんですよ。それなのに、二人とも毎日毎日飽きもせずにケンカばかりするようになって。」

「先生前に何で朝早くに学校にくるのか聞きましたよね。あれね、家にいるのが嫌だからなんです。家族なんてずっと変わらないと思ってたのに、私の知らないところが二人とも変わったみたいで、お母さんたちはケンカばかりして、私の話なんて聞いてくれないんです。家にいても自分の居場所がないみたいで、それで宮本先生に相談したら、音楽室の鍵を貸してくれたんです。教室で一人でいるよりもピアノでも弾いてたほうが気持ち的にもいいだろうって。」

「ねえ、先生。私、お父さんとお母さんが怖いんです。二人とも小さいころとおんなじ顔で、同じ声で、何にも変わってないはずなのに、なのに二人してお互いのこと罵倒してるんです。それ見てたら、お母さんたちが別人になったみたいに思えてきて怖いんです。」

「みんないつかは変わっちゃうんですか?誰もかれもお母さんたちみたいに、別人になっちゃうんですか?私もいつかは今の私を忘れちゃうくらいに、変わってしまうんですか?だったら、今の私っていったいなんなんですか?私は今なんで"私"なんですか?」

鍵盤を見つめながら、堰を切ったように一切の表情を変えずに話し続ける彼女になんと言うべきなのか。答えを出せないまま立ちすくむ私に、「いきなり変なこと聞いてすみません。」とする必要のない謝罪をして、彼女は音楽室を出ていった。

ピアノの上には、持ち主を失った鍵が独りポツンと取り残されていた。

 それ以降彼女が音楽室に来ることは徐々に少なくなっていき、2週間程度の冬休みが始まりを迎えるころには、音楽室で彼女の姿を見ることはなくなった。

ほんの2ヶ月程度の最終学期が終わるころ、彼女の担任から彼女の転校についての連絡がされた。その先生が言うには、親の離婚が理由らしく、母親についていくことになった彼女は、母方の実家のある山形へと引っ越すことが決まっていた。おそらく音楽室で最後に話した時にはもう決定していたのだろう。

 四月になった校庭には桜が咲き、風に吹かれて空を舞っている。そういえば桜の花言葉は何だっただろう。あいにくと花については知識が乏しく、花言葉なんて覚えていないが、そんなことはお構いなしに、桜の花びらは風に乗ってどこか遠くへと飛んでいく。

生徒がたった一人いなくなっただけ。しかも重たい防音ドアの向こう側でしか交流のないような生徒。ドアに遮られ、微かにしか届かない小さな音がなくなっただけ。たったそれだけなのに、朝の廊下には滑稽な靴音の残響だけがこだましていた。

*****

 あれから長い月日が経ったが、まだあの日の答えは見つかっていない。彼女は答えを見つけただろうか。自分があの時と比べて変わったとは思えないが、私も他人からみたら別人のようになっているのかもしれない。私を私たらしめるものとはなんなのだろうか。

私はいつまで"私"でいられるのだろう。小さいころの無知で無垢な私は今や見る影もないし、青春時代の自分中心に世界が回ってるような全能感も失った。おじいさんになれば身体の自由も失われていくだろうし、古い人間だと淘汰されていくだろう。身を取り巻く環境も、手に収まりきらないほどの情報も、常識だと思っていた考えも、ありとあらゆるものが変化していくこの世界で、私を"私"たらしめるものなどあるのだろうか。

それを見つけたところで彼女に伝えることは叶わないだろうけれども、その答えを今も探し続けている。今ではあの問いだけが、私と彼女を繋ぐものになっている。

 灰色の雲が切れ切れになって、朝から雪を降らせている。踏み固められてもはや氷となった道路に車を走らせながら、彼女のことを思い出していた。彼女はいま何をしているだろうか。あの問いの答えを彼女はもう見つけただろうか。

 先週から教育実習が始まり、大学3年生の子が教育実習生として実習を行っている。本来ならば、先週にはちゃんと挨拶できていたのだが、出張と風邪が続けざまに起こってしまい、結局初顔合わせが教育実習が始まってから2週間経過した今日になってしまった。今年はどんな子が来たのだろうかと、期待と不安を7:3で混ぜ合わせたまま教育実習生のいる待機室を覗き込んでみる。

見たことのない人がいればその人だろうと思ったが、どれだけ待機室の中を見まわしてもそこに人影はなかった。今の時刻は8時になろうとするところ。道路の凍結のせいで普段より遅く到着したから、教育実習生ももう来てるだろうと思ったが、まだ来ていないようだ。職員室にいるのかなと思い、職員室へと足を運ぶ。しかし、そこにも実習生の姿は見当たらなかった。

「今日は教育実習生の方まだ来ていないんですか?」と、担当教員に聞くと、

「彼女ならもう来てますよ。30分くらい前に一緒に校内の見回りして帰ってきたんですけど、それから音楽室の鍵を借りていったので音楽室にいると思います。たぶん授業の予行練習でもしてるんだと思いますよ。」

「音楽室?担当教科って音楽でしたっけ?」

「そうですね。今日は午前中に彼女の授業が入っているので、お昼休みに準備が出来ないんですよ。いつもはお昼休みに音楽室に行ってるんですけどね。」

「いつも行ってるなんて熱心な子なんですね。」

「なんでも、この中学校に通ってた時もわざわざ朝早くに学校に来て、ピアノ弾いたりしてたらしいですよ。よっぽどピアノが好きなんでしょうね。」

ニコニコして話す担当教員の、その言葉の意味を理解するのに、どれだけの時間がかかったのだろう。現実にはほんの一瞬だったかもしれないが、時が止まったかのような錯覚に陥った。

私がこの中学校に勤務して、今年で8年目。いまいる先生のなかで1番の古株となっているのが私だ。そして、私の記憶の限り、わざわざ朝早くに学校に来てピアノを弾いていた生徒なんて、たった1人しかいなかったはずだ。

「ありがとうございます。ちょっと彼女に挨拶してきますね。」お礼だけ伝えて、すぐに職員室から音楽室へ向かう。

 廊下に靴音が響くのに合わせて、心臓が早鐘を打つ。キュッキュとなる靴音は、冬の寒さをかき消すほどに期待の熱を帯びていた。ほとんど確信に近い予想は、白い息となって小刻みに発散されていく。

もうすっかり建て付けも悪くなった扉が、舞台の幕を開けるかのように音を立てて開いた。雲の切れ間から差す薄い光が、スポットライトのようにピアノに座る人物を照らしている。室内に響く音を耳にしたその瞬間、あの問いの答えを見つけた気がした。

あの頃よりもずっと美しく、あの頃とは比べものにならないほど洗練されているけれども、

音楽室のピアノからは、あの頃と何も変わらない

懐かしい"世界"が広がっていた。

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