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【ニッポン国おかんアート村】は考える

【ニッポン国おかんアート村】@東京都渋谷公園通りギャラリー
2022年1月22日(土)~ 4月10日(日)
https://inclusion-art.jp/archive/exhibition/2022/20220122-119.html

胸を打つテキストは指、体勝手に刻んでるフリースタイル。
『夜露死苦現代詩』において明らかなように都築響一氏は、作品のみを切り取って提示することはない。文脈から作品だけ切り取ってくることを自らに禁ずる。
というより、作品を作品として成立させるその根にある栄養源ー震源といったほうがいいだろうーから目を離すことがない。
「提示する」と簡単に書いたが、一体誰に?決まっているだろう、鑑賞者に。それは本当に決まっているのか?

普通の美術展なら鑑賞者がゴールだろうが、氏は鑑賞者を壁打ちに利用する。だから作品は、しかるのち、作者に返ってくる。
そう。値段は付かないかわりに、作者に返ってくることを意図した”循環の生態系”としての展示となっている。
もうお気づきだろうが、もう作者という言葉は適当ではなくなっている。なぜといって、これまた作者という仮面も壁打ちの素材にすぎないのだから。

特別展示コーナー「おかん宇宙のはぐれ星」に入って、速度は加速する。
早稲田松竹を舞台におかんアートを繰り広げてきた荻野ユキ子さんのインタビューを読んだ鑑賞者は、作品のことよりユキ子さんが印象に残るだろう。だれも、匿名的な三人称としての「おかん」だけを記憶に留めるわけにはいかなくなっている。
新聞バッグとコラージュでおかんアートに参入した/させられた嶋暎子さんとの邂逅のプロセスは、メタ的にキャプション内に忍ばせられている。
都築氏曰く、「タイミングを逸していたらこの才能と出会うことは無かった。このような才能が全国に埋もれていて、光を放っているのにも関わらず、気づけないことの計り知れない損失を憂いている」

それが発する光に気づき、近づいて手に取って磨きあげ、人前で展示すること。
原点で駆動しているのは人間に対する興味。鼻先で光るものがあれば目をつむっていても反応できる。(むしろ目は左脳と共犯することで人間を裏切る)
これがキュレーターの仕事である。

民藝や現代アートとの呼応をちらつかせつつ、人類学的な収集の手つきを思わせながら、両者を横断する幅がここにはある。
少なくとも主客が反転する瞬間が何度もやってくる。
人間が森のことを考えられるのであれば、森自体が考えることもあっていい。https://ekrits.jp/2021/02/4274/

なかなか観られる景色ではない。なにせ景色から見られているのだから。
この景色をどうやってみるのが正しいのか。正しさではない基準が要請されている。あなたはどの基準をこしらえるのか。再帰的に迫る問いが再度手招きしている様子が見えてくる。


参照)荻野ユキ子さん作品サイト@早稲田松竹
http://www.wasedashochiku.co.jp/art_gekijo/art_top.html

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