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書類地獄と春

春になり、学年が変わると、大量の書類を書かされる。給食がうんたら、PTAがかんたら、積立金がなんたら……小学生の頃の私にとって、春休みは毎年毎年億劫に感じていた。

書類一番苦手だったのは、「家から学校までの道のりを地図で書く」こと。
家の周りだけやたら詳しくて、家の近くの商店街から急に一本道で学校につながる、みたいなヘンテコな地図を書いていた。町会から配られる地図を見ながら書いたらいいよとどこかで教わってからはもうちょっとマシに書けるようになった。
空間を俯瞰的にバランスを気にしながら書く、や、適度に省いて書く、みたいなことが当時は苦手だったのかもしれない。

そもそもなぜ私が代理で書いているかというと、母は「文字が書けないから」。正確に言うと、「日本語が書けないから」。
海外で生まれ育って、大人になってから日本に来て10年の月日を経たといっても、書くことを学ぶ機会がなければそりゃ書けることはない。
だいぶ流暢に日本語を話せるようになっても、書くとなればひらがなもあやしい。

(ちなみに日本語の書ける日本生まれ日本育ちの父もいたが、常に家では酔っ払っていて、書いてと頼めたことがほとんどない。)

まだまだ紙社会だった15年以上前の当時、私の手は母の手になって、あらゆる公的な書類を書いた。
一人分ならまだしも、弟が増えるたびに書く書類がどんと増えた。
まだ一緒に住んでいた数年前にも、介護士として働く母は「仕事のレポートを書かないとダメだけど、わからないから書いて」と頼まれたこともあったし、今もあんまり書けないだろう。

その時には言えなかったけれど、本当の私は、地図どころか、書類を書くことそのものがどちらかと言うと苦手だった。でも、私の苦手は母の苦手と比べるとちっぽけだった。

子どもが担うあらゆる不幸は、そんな小さなあれこれが募って大きな塊になっていくんだと思う。


私みたいな人間が、もうちょっと当たり前に苦労しない社会になればいいなと思う。そのためには、語りなどを通じて存在を知ってもらう必要がある。
でも、私は私の範囲でしか語れない。

最近は、例えば「ヤングケアラー」という言葉で可視化されてきた。
一方で、ひとまとめにされることで一人一人の「しんどさ」「だるさ」が見えにくくならないかと少し心配になる。


ペーパーレスが進んで、母は書けないことで困ることが減った。スマホがあれば色々何とかなって助かる。
そもそもみんな大きくなって巣立っていったから、しばらくは自分のことだけ心配したらいいものね。

今、私は、父方の祖母の高額医療に関する書類や、老人ホームからの申請書を大量に書いている。

また、誰かの手の代わりをやっている。

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