まさと

90年代後半生まれ。800字のエッセイに書き上げ、「ダスト・エッセイ」と名付けてまとめ…

まさと

90年代後半生まれ。800字のエッセイに書き上げ、「ダスト・エッセイ」と名付けてまとめています。別媒体で毎週木曜投稿し、noteにランダム転載。内容は、普段の考え事。知っていることや考えていることを書くのではなくて、書くことで知っていき、考えていく、その様を残しています。

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  • ダスト・エッセイ

    800字を目安に、日頃考えていることを書いています(別媒体からの転載)。

最近の記事

素敵な生き様

『夢をかなえるゾウ』という作品がある。ある日、平凡なサラリーマンの主人公の元に、ガネーシャが現れて、彼が出す課題を毎日こなしていくことで、主人公が”成功”に向かっていく。 課題の一つに、「会った人を笑わせる」がある。その場の空気を明るく前向きなものに変えること、つまりその場の人々を笑わすことができる人は、重宝される。その人の周りに、人が集まる。 主人公は試しに職場で冗談を発するが、失敗する。 空気を変える方法の中で、笑わせることが、一番難しい。 * いつも、人を笑わ

    • やさしくなる方法(ダスト・エッセイ)

      一部売り場の世界観を創る作業を初めて担った。悩んでいると、かわいくてキャッチーな備品があったので、これを使おうと試みたが、全然上手くいかない。先輩にそれを言った。 方法が先にあるよりも、まず創りたい世界観を具体的に想像して、そのための方法を探してみる。 それがベストだと教わり、なんとか出来上がった。 * ジョージ・ソーンダーズが、所属する大学の卒業式で行ったスピーチの活字版を読んだ。 やさしい人になってほしい、と彼は語る。半世紀以上、波瀾万丈な人生を過ごしてきた彼が

      • 提唱者への提唱(ダスト・エッセイ)

        自分が文章を書いても、自分の言葉のように思えないと言う人がいた。なんだかわかる気がした。自分が影響を受けた人の言葉を、つぎはぎにしているに過ぎないように思えてしまう時がある。 * 5年前友人が、最近流行りのMBTI診断のURLを送ってきたので受診した。僕の診断結果は、16タイプのうち、「提唱者」というものだった。 「提唱者(INFJ型)は最もまれな性格タイプですが、社会に大きく影響を与える人たちでもあります。強い信念を持ち、理想主義者である提唱者は惰性で生きる人生には満

        • 科目の向こうへ(ダスト・エッセイ)

           10年以上前の大学一年生が書いたある文章を読んだ。彼女の高校は大学受験のために1年生のうちから文理選択をしていたと言う。早々に生徒たちは、”いい就職”のための大学受験のために、必要な科目の選択をはじめ、切り捨てられた科目には興味を持たない。それはどうなんだろうと、つらつら書いていた。 *  僕は自分の中学・高校時代を思い出した。5段階評価中、全科目基本「3」、苦手な国語と社会、音楽と美術は時々「2」、少し好きだった体育と数学、英語は時々「4」だった。得意科目はなく、勉強

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        • ダスト・エッセイ
          38本

        記事

          これからの20年僕はあの子たちのために何が出来るのだろう(ダスト・エッセイ)

           これからの20年、僕はあの子たちのために何が出来るのだろう。地元の図書館で本を読んで、 閉館時間が迫って出ていく時に、4歳くらいの子供たちが、大人用の高さに置かれた検索用パソコ ンを使って、セルフ貸し出しをしている様子を見た。その帰り道、そんなことを思った。 *  僕は同世代を除くと、20歳ほど年上、あるいは2回り上くらいの人たちと関わることが多い。 彼ら彼女らからは、教わることもあるし、相談に乗ってもらうこともあるし、逆に相談に乗ることもあるし、互いの熱い想いを話すこ

          これからの20年僕はあの子たちのために何が出来るのだろう(ダスト・エッセイ)

          黒い手袋(ダスト・エッセイ)

           ホームに降りようと階段へ向かうと、大勢の乗客が下から昇ってくる。電車が着いたばかりで、まだ停車しているかもしれないという期待が膨れ上がる。俯く様に昇ってくる人々にぶつからない様に気をつけながら、小走りで降った。  きっと、この人の流れの中で誰かが転んでも、その後ろの人は見事に避けて追い抜いて行くのだろう。逆走する僕が転んだら、もっと迷惑がられるだろうと思った。 *  大船駅では、事故がなくとも、よく電車が少し長めに停車している。5番線に停車していた湘南新宿ライン小金井

          黒い手袋(ダスト・エッセイ)

          卒論(ダスト・エッセイ)

           仲間たちと、卒業論文の報告会をすることにした。そこには、もう卒業論文を提出して会社員をしている人もいれば、提出したばかりの学生、現在構想を練っている学生、大学院に進学した学生が入り混じる。そして、所属していたゼミも、分野も研究方法も多岐に渡り、雑多な報告会になることが予想される。  用があって登壇できない人も含め、数人の卒業生が興味を示してくれたことを、はじめは意外に思った。 *  卒業論文を書くときに、驚いたことが一つあった。散々主観的なものよりも客観的なものを求め

          卒論(ダスト・エッセイ)

          舞い降りる(ダスト・エッセイ)

           これから僕は、郡司ペギオ幸夫の『創造性はどこからやってくるのか』(ちくま新書, 2023年)を読む。本のカバーそでに、アイデアは「ふいに降りてくるものだ」と書かれている。  そういえば数日前、同僚に、なぜそんなユニークな発想を持てるのかと急に尋ねられて、うまく応えることができなかった。 *  僕らの街に雪が降った。子供の頃は、もっと降る頻度が高かったように思う。舞い落ちる雪を窓越しに眺めてから、外へ飛び出して、雪遊びをした。今となっては、交通の心配をするか、気候変動の

          舞い降りる(ダスト・エッセイ)

          柱の陰(ダスト・エッセイ)

          学生という身分を失って半年以上過ぎた。今でも週に一回大学で仕事をしつつ、授業に潜り込んだり、イベントに参加している。どんだけ大学が好きなんだと、時々苦笑いされる。 *  大学とは、いわゆる社会人に向かって一方向に進んでいく、行っても行かなくてもいい、小中高の次の段階の一種だと思い、入学した。  ところがどっこい、大学の公開セミナーの手伝いをすれば、参加者のほとんどが60歳を超えている。海外の大学に通った学生や、出身の教員からは、海外の大学にはいわゆる社会人が結構いたよ、

          柱の陰(ダスト・エッセイ)

          変わらない教室(ダスト・エッセイ)

           2023年4月に開校した関東学院大学横浜・関内キャンパスは、地上17階建で、オフィス街のこのまちでも存在感を放つ。エレベーターとエスカレーターで移動し、ガラス張りの教室へ入り、ホワイトボードを前に席につく。  春から夏まで社会人向けに開講中の詩の教室は、この14階で行われている。受講生は僕を含めて十数人、25歳の僕以外は、先生も含め、もう一括りに「おじいちゃんおばあちゃん」と呼ばせてもらう。僕も乱暴に「青年!」と呼ばれているので、文句はなかろう。 *  最年長の「広美

          変わらない教室(ダスト・エッセイ)

          パロディ(ダスト・エッセイ)

           知的財産権をテーマにした漫画「それってパクリじゃないですか?」がテレビドラマ化されていたので観ていた。曲がりなりにも研究や創作をする自分の目線でも楽しめた。元ネタに対して愛があればパロディ、リスペクトがあればオマージュ、どちらもなければ、あるいは自分の利益のためだけに模倣するならパクリになると物語の前半に語られる。 *  そういえば最近、ふと思い浮かんで、中原中也の「汚れちまった悲しみに」を模倣した詩「溺れちまったカナヅチに」を書いた。   溺れちまったカナヅチに  

          パロディ(ダスト・エッセイ)

          JRの小劇場(ダスト・エッセイ)

           職場の先輩から、お守りのような存在だと言われたことが、最近では特に嬉しい言葉だった。日曜の夜、平日なら、仕事帰りの人で満員の東海道線で、開放感を感じながら、横並びに座る。お世辞を言わない彼女が、お世辞が要らない空間で、ぼそっと言うから、本当に嬉しかった。 *  鶴見俊輔がこう言っている。 「言葉に表現されない思想が、言葉に表現される思想との対立を保ちつつ、これを支えるとき、言葉に表現される表の思想は、持続力をもつのではないだろうか」。平和を守る人でありたいと思いつつ、

          JRの小劇場(ダスト・エッセイ)

          おじさんとの会話(ダスト・エッセイ)

           戸塚駅近くの飲み屋のカウンターで知り合った60過ぎのおじさんは、行動力も財力もツテもある。でも、一体何者なのかは明かしてくれない。マスターによれば、普段はスーツ姿でピシッと決めているらしいが、今日は上下灰色のジャージにクロックスを履いた部屋着で来ている。  朗らかで威勢の良い正体不明のおじさんは、もう一度昭和の頃のような、地域のつながりを創るには、スーパー銭湯がありゃいい、と言う。互いに孤独者になっていく、日本各地の有り様を変えたい。そんな彼の想いに共感し、僕は耳を傾けた

          おじさんとの会話(ダスト・エッセイ)

          詩にならねえよ(ダスト・エッセイ)

           のんの「この日々よ歌になれ」を、最近よく聴いている。バンド・忘れらんねえよの柴田隆浩が作詞・作曲したらしい。聴く前にタイトルをみて、気に入った。聴くのは、その感覚の答え合わせだった。タイトルから先に気に入るのは、珍しい。  歌になれと思うことはある。それ以外にも、小説になれ、詩になれ、絵になれ、笑いになれ、そう思うことが、時々ある。もう、「それ」でいいはずなのに、「それ」ではないものに昇華され、消化されることを望む。どうして、「それ」じゃ、満足できないのか。  君はまた

          詩にならねえよ(ダスト・エッセイ)

          サイドスロー(ダスト・エッセイ)

           すっかり髪型の変わった経済思想家の斎藤幸平が、夕方のニュース番組に出演して頭を抱えている。昨年新語としてその概念が注目されるようになった「タイパ」について、娯楽を得るための効率化だったはずなのに、娯楽すらも効率化を求めるようになったら、生きている意味を見失っていくんじゃないか。 *  小学生の頃は、毎日のようにドッジボールをしていた。僕は学年でも比較的有能なプレイヤーであり、キャッチングは苦手意識があったが、避けと投球には定評があった。僕は、サイドスローだった。何度か先

          サイドスロー(ダスト・エッセイ)

          夢と呼ばない(ダスト・エッセイ)

           書き上げた文章を寝かせておいた。自信作だった。今日になって読み返すと、新たな気づきがある。それどころか、ずいぶんと長い間、自分が、あることについて、やや勘違いしていたことに気づく。まいってしまう。  夢の話を書いた。僕が15歳から20歳の頃、ほのか抱いていた夢に、とてもよく似た夢を抱く、半世紀生きている人の夢を、聞いた。その夢を手伝うことができるかもしれない。夢を叶えるまでの展開、そのチューニングを合わせるような段階にいる。  抱いた夢は叶わずに、みんな折り合いをつけて

          夢と呼ばない(ダスト・エッセイ)