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Instagramを(ほどほどに)卒業したい

最近、インスタばかり見ている。
そもそもは友達の近況を見たくてインストールしたはず。子育て中の身としてはみんなが何をしているのかを簡単に知ることができるのがありがたかったからだ。
それと、私のささやかな日常の記録としても使っていた。
「うん、おいしい」と思えるごはんが作れたら、それを写真に撮る。
インスタのストーリーにアップして、ついでに友達の近況を見る。
それだけのはずだった、それなのに・・・。

発見タブから強制的につながる『好き』

Instagramのミッションをご存じだろうか。
ミッションとは、その企業が何を達成したのかを具体的に明言しているものなのだが、インスタのミッションはこれだ

大切な人や大好きなことと、あなたを近づける

https://about.meta.com/ja/technologies/instagram/

アプリの左下にある虫眼鏡アイコンの発見タブ。
あのページには、アルゴリズムによって私の趣味嗜好に合うであろうと思われる投稿をおすすめしてくれている。
試しに今見てみてほしい。どんな投稿が並んでいるだろうか?
私の場合はこんな感じ

ざっと系統分けすると
・英会話系
・子育て漫画系(スカッと系)
・プチプラファッション着こなし系
・レシピ系
・美容系
とこれだけのジャンルの情報が日々わんさかと流れ込んでくる。
目にもまぶしいサムネイル画像と、いかにもアラフォーママが読みそうなタイトルたち。
この発見タブにより、インスタとの付き合いが変わってしまった。
1日1回、20分ほど見ていただけだったのに、暇さえあれば見るようになってしまったのだ。
家事と家事のちょっとした隙間、仕事の休憩中、電車移動中、子供を迎えに行く前・・・。
隙間という隙間にインスタが挟み込まれる。
1つ投稿をみるとスワイプでどんどん関連する投稿が見れてしまう。
強制的に『好き』と繋がってしまうのも考えものだ。
別に『大好き』ではないからだ。
劇的に面白いわけでも、うーんと考えこませてしまうわけでもなく、別に見ても見なくてもどちらでのいい内容の投稿。
それでいてなんとなく感じる顔も知らない人と一緒に盛り上がっている感・・・!
この感じわかるだろうか?最近のインスタは承認欲求的な使われ方ではなく、なんか共感してみんなで同じ感情になるようなリール動画や、子育て漫画系が多いのだ。
かといって別にめちゃくちゃ盛り上がっているわけではない。
スマホをのぞき込む表情は変わらない。
それくらいの「ぬるさ」が結果、何度でもインスタを開かせているのだ。

暇と向き合えない私たち

そんなインスタ中毒の私にぴったりな、面白い本があった。
どちらも夫が買ってきたのだが今の私にベストヒットだった。

國分功一郎著/太田出版


谷川嘉浩著/‎ ディスカヴァー・トゥエンティワン

2冊ともに紹介されていたブレーズ・パスカルの気晴らしに関する論議が非常に面白かった、というか切れ味鋭すぎて「うぅっ」てなった。一部を抜粋して紹介。

"人間の不幸は、部屋でじっとしていられないがために起こる”

”退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないというのに、自分が追い求めるものも中に本当に幸福があると思い込んでいる”

その通りすぎる。
というか破壊力がありすぎて、
「あはは、やだなぁそんな、やめてよパスカルさん、そこまで言わなくてもさ、みんながんばってるんだから、たはは。」
なんて愛想笑いして汗を拭きつつ、こいつきついこと言いやがって空気も読まんと。よっしゃ、甘い菓子でも食わせとこか。みたいな気持ちになってくる。

本の内容に戻ろう。
じっと自分の部屋にいると、内側から「退屈だ」「寂しいよ」という声に耳を傾けざるを得ない。
それはとてもしんどい作業だ。
だから何かに注意を分散させていたい。
だから人は昔から気晴らしのためにあれやこれやと手を尽くしてきた。
そして現代。
絶好の気晴らしアイテムとしてスマホが現れ、SNSが登場してしまったのだ。
頭を使わない程度で他者と繋がることをスマホ時代の哲学では「快楽的ダルさ」と表現している。その一節がこちら

抑うつ的快楽とは、<娯楽や刺激、おしゃべりで細かく時間を埋め合わせることで「快楽的なダルさ」に浸り「柔らかいこん睡状態」となり、一抹の安楽を得る>というメンタリティ(中略)
「何かが足りない」ち心のどこかで感じながらも、快不快を超えたところでしか欠如の感覚を埋められないことを理解しないまま、そうした安楽に走っている

スマホ時代の哲学P246

私はせっせとインスタを見ながら"柔らかな昏睡状態”に陥っていたという事実。確かにスマホを見続けるのはダルいが、そのぼーっとした現実の先送り感がSNSにはある。いや、SNSだけでなくオンラインゲームも同じことが言えるだろう。
我々は暇という現実を回避するために、思考を止めたのだ。

ひたすら『消費する』時間

暇と退屈の論理学では『浪費』と『消費』の違いについて述べられていて、すべてこれに当てはめるとわかりやすいんじゃないかと思ったので紹介したい。
浪費とは必要を超えて物を受け取ることであり、いつかは必ず満足するが、消費は決して満足せず、限界がないという。
なぜなら、消費の対象がモノではないからだ。
消費者が受け取っているのはモノを受け取るのではなく、そのモノに付与された概念や意味を消費する。だから消費は終わらないのだ、と。

詳しくは本を読んでほしいのだが、自分にとって何が『浪費(贅沢で満足する)』で何が『消費(せわしないが、満たされない)』かを分類する作業をしてみてほしい。多分自分のことがわかってきて楽しくなるはずだ。

私の場合完全にインスタは消費だった。
常に指先と目線を動かしせわしなくしているはずなのに、一向に満足しないからだ。いくらなんとなく盛り上がっている感(ウェーブ消費というらしい)が得られたとて、本物のお祭りやライブなどとは程遠い。
お祭りやライブは浪費で、”なんとなく当たり障りが良いように作られた”インスタでの盛り上がりは消費だ。
だからインスタを見れば見るほど、むしろ疎外感を覚えるようになる。
スマホによって注意は分散され、本来向き合うべきものと向き合っていないからだ。時間を消費するのではなく、浪費すべきだ。
では向き合うべきものとはいったい何なんだろう?

退屈に身をさらす

やっぱり私たちは退屈という感情から逃げてはいけないらしい。
スマホ時代の哲学によると退屈は自分を変えるシグナルだという。

退屈だ、と感じるときは大体独りぼっちだと感じるときとリンクするのではないだろうか。
本当に部屋に一人、ということではなく、誰かと一緒にいても、パーティに参加していても、退屈だと感じるときは大体独りぼっちな時だと思う。
独りぼっちはネガティブなイメージがあるが、人は1人にならないとなんとなくモヤモヤした感覚とか、言葉にならない感情と向き合えない。
モヤモヤとした退屈をちゃんと思考すること。それをきちんと楽しむこと。
答えをすぐに出さないこと。ネガティブケイパビリティという感覚をもって生きること。そんなことが2冊の本に書かれていた。

私はいつから退屈と向き合えなくなってしまったのだろう。
私の退屈をのぞき込むと何が見えてくるのだろう。
非常に複雑な自分の心をたくさんの自分の目で観察したい。
本を読んでそう思った。
そして、私はインスタのアプリを消した。

全部は無理。でもちょっとずつ

いきなりインスタ全部見ない、はちょっと無理だと思ったのでメインのスマホからアプリを消し、SIMが入っていない旧スマホだけでみるように変えてみた。
それだけで随分と変わった気がする。まずはインスタを浪費する感覚がある間だけ見るようになった。
友人の近況を見た後、かわいい犬猫の動画を見て癒される。もしくは美容系のアカウントで情報を得る。
これだけだとちゃんと浪費だが、ここからだらだら見だすと消費に代わる。
この感覚は非常に大事。
あとは隙間隙間にインスタを開く習慣もなくなりつつある。

まだ自分とじっくり向き合えているかというとそうでもないけど、読書の時間を増やすことで「正しい孤独」の時間を増やすようにしている。
こうやってnoteに記事を書くのも私にとっては正しい孤独の一つだ。
ゆっくりと退屈と向き合っていこうと思う。

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