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20代後半。

私は慌ただしい毎日を過ごしていました。
介護のお仕事をしながら、休日は祖母の入居する介護施設に面会へ行き、
週末はフラのレッスン。週に2回は仕事後に掛け持ちでバイトをして、
夜中まで働いて、深夜に帰宅してから翌日のお弁当を作って仮眠してまた仕事へ・・・

彼(今の旦那さん)に会う時間は本当に限られていました。
それを苦に思った事もなく、それが『普通』の生活だったのです。

ひとつ変わったことがあったのは、
お酒を飲んで時々帰りの電車の中で意識を失うことがあったこと、
記憶をなくすとかではなく、失神する・・・という感じ。
その経験を思い出すと死にそう!と思うくらい息苦しくなって
一旦下車してしまうので、なかなか電車に乗れなくなった時期がありました。

その後近所の心療内科に駆け込み、

『パニック障害』と診断され、
ほとんど話を聞いてくれるわけでもなく強い薬を出されて
副作用で歩けないくらいフラフラになり、薬を飲むのが嫌になりました。
幸いにも最寄りの駅近くに同僚が住んでいて、状況を理解してくれて、
仕事の行き帰り同行してくれたのが練習になり、しばらくすると
パニック症状は消えていきました。

はやいうちにこうした訓練を行えたことがすぐに良くなったのだと
今は前の職場の同僚にも感謝しています。

時同じくして彼との付き合いも長く、お互い結婚を意識するようになり
フラを中心とした生活を卒業しなくては・・・と大きな舞台を終えた後
フラスタジオを一旦辞めて、これからを考えるようになりました。
そこから今の旦那さんとの結婚を前提とした同棲を決めて引っ越しも
しました。父が亡くなってからは母が一人で育ててくれたこともあり、
実家を離れるという事は私の中でも、母の中でも一大決心でした。

その頃は同居していた祖母も肺炎で入院し、病院生活を送っていました。
引っ越し先は実家から30分圏内、祖母の病院も自転車で10分の距離。
毎日祖母に会いに行き、痩せ細って会話も出来なくなっていく祖母に
大好きな野球のラジオを聴かせ、奇跡を信じて面会終了ギリギリまで
話しかける毎日でしたが、願い叶うことなく数か月の後、祖母は私が見守る中息を引き取りました。

しばらくは実感もなく、祖母に会いに行っていた時間に何をしていいのか
わからない日々、病院近くを通るのが辛くて苦しい日が続きました。

その時に今のお姑さんに
『これからは自分の人生を生きていいんちゃう?』と言われ、
家族や親戚とも話し合い、今の旦那さんとの結婚話が進んでいきました。

私生活はとても幸せだった半面、仕事は激動で、
人間関係が悪くなっていく職場に悩み、体重がドンドン減っていき、
働いていた介護施設に通う利用者さんにも
『ちょっと痩せすぎじゃない?』と言われることがあるくらいな時期でした。
今振り返れば、全ての事に対して納得いかなければ全力でぶつかっていく、
納得するまで話す、相手にも共感してほしい・・・という強すぎる信念が
敵対心を生んでしまって、自分自身も追い込んでいったのかもしれません。

その頃からです。
会社のおしぼりウォーマーのスイッチを切ったか、
コーヒーメーカーのスイッチ、IHコンロのスイッチ・・・家電のスイッチが
異様に気になるようになり、残業している人に電話で聞いたり、
朝の目覚まし時計も何度も何度も確認したり、
今までは気にならなかった自転車で踏む石や段差が
なにか動物じゃなかったかな・・と気になるようになってきました。

そう、

『確認行為』が着実に増えていったのです。

そしてあるきっかけが
『強迫性障害』という病気だと診断されることになるのです。

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