「天気の子」の作品としての考察

天気の子について考えられる限りの考察をしてみました。物語としてではなく表現技法や狙い、演出などの細かい難癖です。基本的にすべて孔明の罠論調なのでご理解ください。

【はじめに】作品としての感想

「新海さんは多分この3年間で嫌なことがあったんだろう」というのが映画を見ての率直な感想。天気を題材にするきっかけは前作「君の名は。」のプロモーションで忙しい日々を過ごしている際にふと思いついたとインタビューでも語っているので少なからずその傾向はあったであろう。前作が空前のヒットとなり環境が一変。良い人も悪い人も寄ってきて良いことも悪いことも言われて…。そんな中で今作を作りきったことにすごいの一言。前作よりもっと怒られることをしようという意気込みからもわかる通り、今作は様々な「新海外し」が行われている。それについて一つ一つ考えてみようと思う。

①いつもの美しい背景描写。でも…

新海誠作品といえば現実よりも美しい背景美術の緻密さ。特に街並みについては「俺の住んでる所ってこんなだっけ?」と困惑するほど。しかし今作は違和感がある。アバンが終わった後の東京の街並みはホテル街、歌舞伎町、路地裏等の今までの新海作品では見たことない場所ばかり。須賀さんの事務所から陽菜の実家までどこか小汚く生活感がある。前作までのキラキラした風景ではなくリアル(現実)に近い感覚。スポンサーについた企業製品や看板が嫌という程出ることで拍車がかかり観客はアニメなのに現実を感じ嫌な気持ちになってしまう。しかし一転、陽奈と出会い天気を操作する局面になると前半の嫌な気持ちを洗い流すかのように、これでもかと美しい街並みが広がる。このタメがあるからこそ「待ってました!」と観客はその美しい背景に魅了される。しかしその誰もが待っていた新海作品の背景が最後にはその美しさを望んで良いのか迷う構造は非常にうまい。今までの新海作品にはなかった手法で背景美術が物語に一歩入り込んだ。まさに監督ならではの表現だろう。

その街並みと対するように雲や空の表現は現実離れした美しい描写が幾度となく出てくる。雲の専門家を招いてまでの徹底した雲の表現は圧巻であり、それは理想とした無垢な世界であると同時に目指せば目指すほど現実との乖離が激しくなり苦しくなる。まさに理想と現実の象徴であり今作の象徴でもある。その無垢な空や雲だからこそ、陽菜が消えた後の素晴らしい青空が残酷なまでに綺麗なのはさすがに監督も人が悪い。



②天気の子の元ネタはサリンジャー?

序盤でどん兵衛の蓋代わりにしているのはオタクにはお馴染みのサリンジャー作、ライ麦畑でつかまえて。原題のThe Catcher in the Ryeのタイトルなので村上春樹版であろう。

今作はライ麦畑とストーリーラインが酷似しているのはすでに気付いている人が多い。田舎からの家出、娼婦の子、等々共通点はたくさんある。しかしここで「天気の子の元ネタはサリンジャー!」と決め付けはよくない。そんな使い古された元祖厨二病患者大量生産兵器をこの現代に堂々と元ネタとして使うことの恐ろしさを新海誠が知らないはずがないからだ。ではなぜあそこにサリンジャーが?その答えはただ一つ。帆高の家出の原因を作ったのがあの本だからだ。あの本は帆高が家出の際に持ってきた本であり帆高の行動原理そのものであったに違いない。描写はないが帆高は元々本を読む青年だったのだろう。だからライターのバイトをし始めた時も文章がかけた。たまたま読んだライ麦畑に感化された帆高は島の生活が嫌になりケンカをしそのまま島を飛び出した。だから最初の船のシーンで率先して雨に打たれて喜んだのだ。だが肝心の主役である帆高はホールデンとはまったく逆の性格。感情移入し辛いはずだが「俺ならもっとうまくやれる」「なぜそんなウジウジするのか」という帆高の苛立ちは自信に代わりその自信が物語をあの結末へと導く。最後の陽菜を助け出すシーンもホールデンのような受け身ではなく「飛べ!」と叫ぶ。東京に来てからの様々な出来事に帆高自身も内心ワクワクしていただろう。ホールデンとの対比を意識して帆高の行動を追うとその原理が見えてくるに違いない。家出の原因が語られないのは余計な情報をあえて省いているためということだがあそこでサリンジャーを置くことで説明責任を果たしてる。「見ればわかるでしょ?」と言わんばかりなので実に意地が悪い。まるでかぐや姫の物語の時の高畑勲のようだ。そこの意地悪さが今までとは違った作風を生み出している。

少なからず話作りのベースにはしているがメインには置いていない。そもそも新海誠監督はシーン優先型の作風なのでそもそも元ネタは存在しないかもしれない。あえて言うならフリクリだろうか。新作を見て不満だったのだろうか。夏美さんが実はベース弾きだったら確定なんだけど。



③拳銃の役割とは?

ロシア製拳銃が好きな私はマカロフが出た時にちょっと嬉しかった。やーさん御用達のマカロフが歓楽街のゴミ箱に捨ててあるのはなかなか風刺が聞いている。

帆高は拾った銃を御守り代わりに持っていたおかげで陽菜と出会えた。ではなぜ銃を出す必要があったのか?物語的には銃は帆高の正義感の象徴であり純粋さの象徴でもある。青臭い正義感で脅威を退けるための1発目は純粋に誰かのためでなく保身も混ざっている。そして確固たる意思を持って打った2発目の対比によって帆高の意思の強さを表し物語の転換の合図としても機能している。綺麗にチェーホフの銃の構図であり物語を牽引する重要なキャラクターの一つである。そこに気付けば銃の存在がなんら疑問では無くなるが気付かなければ余計なものに見えてしまう。観客がチェーホフの銃を知っている前提での構成なのでこれも意地が悪い。前作までの丁寧な作りとは逆な荒っぽい手法だ。

作品として監督して考えるとあの拳銃は自分の作品そのもの。おもちゃと思ったら本物で打った本人も驚き終いには救った女の子に気持ち悪いと言われてしまう。まさに前作公開当時の監督の状況がそれだろう。興行収入第2位となった前作はいわば暴発した拳銃のようなもの。誰もが振り返り野次馬が野次馬を呼び憶測が飛び交いやがて批判の対象とされる。そんな追われる日々を過ごす中であえてもう1発目を打つ勇気と決意の現れ。今作は君の名は。を受けての恩返しとインタビューにあるが、とんでもない。これは恩返しではなく宣戦布告だ。



④音楽との不調和とその狙い

本作も一人の女のために5枚のアルバムを費やしたでお馴染みのRADWIMPS野田洋次郎くんが楽曲を製作し話題となっている。新海作品の真骨頂である音楽と映像のシンクロに今作も期待が高まり実際に話題となっている。しかし今作はそのシンクロに違和感がある。「そこまでシンクロしてなくない?」と思った方も多いだろう。これは編集ミスでもなんでもない。自身のお家芸をあえて外してまで監督がやりたかったこととは何か?

今作は構成から登場人物、結末に至るまで「外し」が多様されておりそれを意識付けるために音楽と映像の不調和がうまく使われている。須賀に拾われたからのダイジェストは須賀と帆高の認識のズレ、天気のアルバイトが始まってからは世界との調和のズレ、世間とのズレ、そして主役2人の間のズレと続いていく。音楽的な感性は皆無なので具体的には表現できないがどこか気持ちよくないしっくりこない。このフラストレーションのまま最後の銃声の後にドンピシャな音量とタイミングで「愛にできることはまだあるかい」が流れることにより観客は焦らされた感情が一気に爆発する。初めてそこで作品と観客とのズレが解消され誰もが帆高の選択に共感する作りになっている。しかしこれは同時に間違った事を正しいと認識されられている事になる。拳銃を所持し国家権力に逆らい暴走する少年は世間としては間違っているし、しっかりと大人の意見を聞き反省するのが世の中の正しいことだ。しかし観客は陽菜を連れ戻したいという帆高の選択に共感してしまいその後の「天気なんて狂ったままでいい!」という叫びと物語の結末に困惑する。これが新海誠が表現したかったポスト・トゥルース(脱真実)であり世間の正常よりも感情を優先されている世界の先に何が起こるのかを観客に身を以て体験させるという荒技を綺麗にやってのけた。そこにお家芸の映像×音楽を利用する新海誠は自身の武器をよくわかっている。そしてエンディングで大丈夫と洋次郎くんに言わせる。観客は心が洗われ監督は自身の所業を匠に隠す。隙がない。恐ろしい子。



⑤キャラクター造形の多様化と厚み

萌え絵を敬遠するのは萌え絵を見ているオタクだけな気がしますがどうでしょう?最近はその辺のおじさんから女子高生まで萌え絵のおっぱいプルンプルンキャラが出るソシャゲをやっているのでそんなに敬遠されないんじゃないかと思ってます。そんな萌え絵寄りになった今作ですが前作と比べるとキャラクターの記号化が少し和らいだかな?というのが率直な感想。

前作がうまくいった要因は徹底したキャラクターの記号化を行ったゆえに主役二人に感情移入しやすく多くの人に感動を与えた。先輩はマドンナだし父親は立ちはだかる壁だしおばあちゃんは解説役でテッシーは爆発要員。彗星にまで役割を演じさせている徹底ぶりだ。すべての舞台装置をうまくコントロールし役割を全うすることであのエンタメが完成した。しかし今作の主人公の帆高くん以外ほぼすべての主要人物は2面性を持っている。須賀さんはだらしない大人と思いきや娘の親権に悩む父親、夏実はチャラいけどちゃんと将来を見据えている、凪は外では小学生らしからぬプレイボーイだが身内の前では子供で姉思いで自分の弱さを自覚している。今回はそれぞれにバックボーンがあり人間味がある描写が多々あり、その描写をさりげなくではなくしっかりと書いている。しかし主役2人についてはそれが見えてこない。陽菜は母親を失い弟を養い人柱になりそれでも強く生きている意思の強い女の子に見えるが自分のためになることは劇中で一度も決めていない。自分以外のことを気にかけ承認欲求を満たす事でしか自分の存在意義を見出せない子。Tiktokのいいねに一喜一憂する中学生女子となんら変わりない。しかし見ている側はそのことに気付かない。それは他人に奉仕することや自己犠牲は美徳であり偉いことで当たり前のことだからだ。帆高の造形は新海作品には珍しく素直で純粋で元気いっぱいの男の子。悩まないウジウジしない闇がないので気持ちがいいが、直情的で何をしでかすかわからない恐怖を感じるがそれも気付きにくい。前作とは逆で主役二人は意図的に役割を与えられて進んでいく。ではなぜ主役2人に役割が与えられたのか。帆高の選択から自分を押し殺すよりもっと自由に生きていいんだというもっとらしいメッセージもあるが映画監督というには観客のことはさほど考えていないのが常だ。メッセージはあるがそれは後付けであり本質は別の所にある。それは監督の意思であり葛藤ではないか。前作のヒットから期待に応えるための自己犠牲とクリエイターとしての自我を両方描き、そして自我を選択する。これからの作品作りに対する意思表示ではないだろうか。様々な人に助けられ陽菜を連れ戻した帆高は内なる監督がもう一人の監督自身を救済したことに置き換えられないだろうか。インタビューで「天気なんて狂ったままでいい!」というセリフを言わせたいから話作りが始まったと語っているようにすべてを開き直るための一歩を踏み出すために今作があるのではないか。

だが決して自己犠牲を全否定しているわけではない。なぜなら陽菜が唯一自分で決断した、すべてを犠牲にしても帆高の元へ飛んだその一回の選択が今作の一番の泣所だと思うから。


⑤その他細かいこと

・賛否両論のゲスト出演

瀧くんと三葉だけならまだしもテッシーや先輩、確認不可能な四葉までオールスター出演となった今作。媚を売りすぎと批判が聞こえるがそこは媚をうるべきだし、今作が作れたのは2人のおかげなのでいい役どころを当ててあげるのが親心。

・雨の表現

言の葉の庭でアニメ離れした雨の表現は今作でも健在だが、陽菜が力を使うシーン以外は綺麗というよりは無機質で感情がない。雨音もどこか不快にさせようとわざと大きな音を立てる。天候というものが見えない何かによってもたらされているのであれば、それは人間にとって脅威でしかない怖さがある。そのかわり魚や龍に感情の役を担ってもらっているので映像的にバランスを保っている。

・雪の出るタイミング

新海作品の雪(冬)は本編とエピローグを繋ぐ役割を担う事が多い。しかし今作は雪が止んでからがクライマックスでありその意図は明確には答えが出ない。単なる外しか、監督自身の次なる一歩への象徴か。


【終わりに】天気の子は新海誠の決意表明

総評として「天気の子」は現代の映像作品において一つの風穴を開けたと思う。先人たちがあえてやってこなかったことをエンタメに仕上げ且つ巧みな演出技法で観客の感情をコントロールする手腕は素晴らしいの一言。映像、音楽ともに自分の武器をすべて使い放った今作は間違いなく傑作だと思う。今までの新海作品のようなそうでないような、でも間違いなく私の知る新海作品であると同時に今後の作品のターニングポイントにあるであろう作品なのは間違いない。この決意表明の答えを次回作で早く確認したい。

こねくり回して書きましたが、自分自身のアウトプットのためなので果たして読むに値するかは未知数。宮崎駿と高畑勲との比較とかマカロフの持ち方が意外とプロ仕様とか神話と伝承から紐解く雲と鳥居と彼岸の関係性とかまだまだ考察の余地はあれど…。
佐倉綾音と花澤香菜のいちゃつく小学生時代を過ごしたい人生であった。

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