見出し画像

一度死んだから言えること!

◎閑話休題3

私が倒れて私の状況を通して、あのウイルスは本当にあったのか?と話しています。私のどんな苦しみや痛みも、あの注射の副作用に比べればマシなものです。

急性肺炎が重症化しただけなのですからね。過度な薬も劇薬も私の遺伝子を犯すことは無かったのです。実際に、普通の生活を今は送れているのですからね。

その頃の次男の事を今日は書いてみようと思います。もちろん彼の意思も行動も努力も、この時の私は未だ知らされていません。

次男は小学校4年生の時に、今の場所に引っ越しをして学校も転校しました。そしてそこから3年間イジメが起こり、6年生の半ばで不登校になりました。

様々な手を打ちましたが、教師が全然ダメでスクールカウンセラーも、この学校にまともな教師は居ないと言って、その方がかなりサポートしてくれました。

そんな最中に中国であのウイルスが始まりました。そんな中で年が明けて彼は校長室で一人卒業式を行い、自宅待機となりました。

ある意味であのウイルスの騒ぎで、中学校への入学式も簡素となり、登校も自主的になった時に、彼はそのタイミングで復学したのです。自らの選択でした。

もちろん復学しても周囲の人間は変わってないので相変わらずでしたが、担任がすごく熱心で彼をカバーし、問題が起こればすぐさま解決してくれたので、彼は生きる場所を守られたのです。

結局は3年間彼の担任となってくれて、彼を卒業を見送って担任されて行かれました。本当に今でも感謝しかありません。

そういう流れの中で、2年の年末に私が倒れた訳です。母親に付き添い病院にも来てくれて、許可がある時はそばにもいてくれたそうです。

そして彼は自ら担任に「お父さんがいつどうなるかわからないので、僕は出来る限り病院へ看病に行きたいです。勉強の事より、お父さんのことで後悔したくないから」と申し出て、時には朝から時には午後から、学校を休んで妻に付き添って病院まで来てくれていたそうです。

妻のゆあんさんは身体が弱い方なので、無理が出来ません。家事は今もですが私がしていました。彼の弁当を作っていたのも私です。

そして彼は毎朝6時半頃に起きて、自分の弁当を作り、朝食を作って食べ片付けをして学校へと向かいます。

帰ってくると弁当箱を洗い、兄と協力して夕食や家事や買い物をしてくれていたそうです。私が復帰するまで半年以上も頑張ってくれていました。

その話を聞いた時に、ただただ涙が溢れました。いじめられて不登校になり、ようやく復帰して担任にも恵まれたのに、進学を前に父親が倒れるなんて・・・😭

そんな彼に、話ができる様になってから謝りましたが、何一つ責められることも愚痴られることも無く、やるしかないからねと笑ってくれました。

あぁこの子のために色んな努力をしたけれど、その事よりももっともっと凄い男になったなと感動しました。

そんな彼がある日倒れる様に眠りに入り、起きないというか全く反応しなくなった時があったのです。

私もその頃は喉の細工で少しは会話ができていたので、電話でゆあんさんや長男と一緒に呼びかけていました。そして・・・

『A NEW HOPE』

それは突然生まれた
でも容易では無かった
目覚めぬ意識
いや意識が離れてどこかに行っている

皆が彼を呼び体へと導いた
だがそれでも目覚めない
待つのみだった

まるで蛹が成虫になるように彼はメタモルフォーゼした

幼虫期 
人に拒否られ絶えず一人だった

蛹期 
人を嫌い殻に引き篭もり自分を守った

そして今殻を破り美しき蝶のように羽ばたいてる

新たな存在として解き放たれたのだ
そして目覚めるや否やこう言葉を紡いだ

『どうして人はいろんなことに怖がって、人を傷つけて、自分も傷つけるんだろう』

彼は14歳にしてこの世界の人のありようを理解した
意識が様々なものを見て来たんだろ

彼は悟ったのだ

新しい希望が誕生した瞬間である

続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?