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ヴィーガンにも猟師にも農家にもなれなかったから芸術家になろうっと

※この記事には意見も結論もありません。

ヴィーガンか猟師にならないと、私は一生卑怯者な気がして、狩猟動画をちらほら見てきた。仕事中に涙が溢れてくるくらいには心に刻まれた(迷惑な従業員だ)。

中学生の頃にやたらと動物の死骸を見たことで、耐性はやや付いている、はず(こないだも鳩の死骸見たなぁ)。それでも、狩猟動画を見ただけで動揺が止まらない。

やはり私はヴィーガンにも猟師にもなれそうもない。不食者になれたらなりたいけど、「そんな非現実的なことが有り得るか」以前に、食事が大好きなので。


テレビや動画で何度か猟師さんを見たが、私が見た猟師さんはみんな優しくて、動物が好きで、命への敬意や葛藤があって素晴らしかった。動物への愛が深い人が猟師をしてくださっていて良かった。

しかし狩猟動画のコメント欄がひどい。「野生動物を殺すなんて最低、ひどすぎる」って。牛や豚や鶏なら食べていいんか? 沸き上がった感情をただただぶつけているだけにしか思えない。
(月澄狸も散々同じようなこと言ってなかったか? 生き物の駆除がどうとか。)

「動物を殺すな!」と言っている人。肉を食べたことがないとしても、野菜を食べたことがないはずはない。その野菜は、スーパーに勝手に沸いてくるのか? お金を払えばいくらでも沸いて出てくるのか? 違う。農家さんが作っている。そして農家さんは獣害に困っているのだ。それを無視して野菜を買って食べて、あるいは肉も平気で食べて、何も知らずに「殺すのはひどい」と屠殺を批判するなんて。
「もっと良いやり方があるのでは?」と言っている人も。そう思うなら自分でやればいい。

しかし私も、とめどなく湧き上がる感情と欲望のコントロール、整理、そして向かうべき場所を決めることもできていない。何も目指せない。何もかもにイライラしている、あるいは無気力になっている半端者だ。


私は感謝がない。「アンタなんかよっぽど恵まれているよ」と言われても、私の幸せは私が決めることであり、「お前はもう十分幸せだろ」と人から決めつけられることではないと思っている。

感謝の心が乏しい。それでも。食の輪廻から抜けられないうちは、「ありがとう」「いただきます」「御馳走様でした」それしかない、と思った。


私も無意識に、未発達の感情を人にぶつけ続けてきたのだ。何度も人と喧嘩し、怒られた。「殺すのはひどい」と、感情的で無責任なコメントをした人と一緒なのだろう。

その上今度は、感情的なコメントに感情的になり、「偽善者め」と憤っている私。右から左に感情が移ろいゆくだけ。何も成長していない。

Aさんの味方か、Bさんの味方か。
人間の味方か、動物の味方か。
A国を愛するか、B国を愛するか。
視点が右往左往するだけ。


人が作った野菜、肉を食べながら「私は自然や動物の気持ちが分かる。動物の味方だ」と言って人間を「批判」するなんて。ちゃんちゃらおかしいのである。

……それを私も「無意識に」やってきた。だから人と衝突してきたのであろう。
しかし「なぜ怒られたのか、今となっては分かる」と語るほどの大人には、まったくなっていない。今も感情的に右往左往するだけ。


犬や猫が愛されているのは。犬は狩猟や牧羊、人間の仕事を手伝ってくれるから。猫は、食料を荒らし病原菌を持ち込むネズミを退治してくれるから。

「役に立つから」であったのを「可愛いから」に置き換え、さらに「尊い命だから」と言い出すと、もう収拾がつかない。

何が何より尊い? 誰の次に何が尊い? 人命救助か動物保護か? なんて。

……私たちはみんな、いくら何かを助けようとしても……私も余裕があるときは屋内に入った虫を逃がしているけど、そういうことをしても……命をいただくサイクルからは逃れられないのだ。そしてなぜだか我々は、命をいただいている事実をいとも簡単に忘れ、食のシステムをまるっきり分かっていないのだ。

なんて。分かっていないのは分からんちん達と私だけで、他の皆さんはもっともっと俯瞰的な視点で物事を見ているのかもしれない。見知らぬ誰かの物分かりが悪いこと、私が誰かの意見に食らいつくこと、全部低レベルなことかもしれない。


全部勝手なのだ。「食べるために殺すのはしょうがないけど、ファッションのための毛皮はひどい」とか。「肉は可哀想、魚はいい」とか。「貝や木の実は食べても可哀想に思わない」とか。勝手な基準だ。
小さな昆虫たちにも、カエルやトカゲにも、感情はある。


罪なき生き物を殺すのは可哀想。人間は勝手なことばかり言う。けれど「物分かりの悪い人間、役に立たない人間、害のある人間を殺せ」という意見にもぞっとする。

「食育」で言っていることも、不協和音のように、なんだか奇妙で不気味なのだ。自分たちのクラスで生き物を育てて食べるだとか、鶏を絞めるだとか、私だったらそのような教育を受けたら、一生頭から離れないトラウマになりそう。


哺乳類を殺すのが可哀想。そう思ってくれる人がいることに、どこかホッとしている自分がいる。

魚類になると、「可哀想」と言ってくれる人が減る。釣りは多くの人にとって許容範囲。たまに批判あり。

動画を見ると、魚類も感情豊かですごいのだ。小さな鳥たちも。カメやカエルも。
そのことをもっともっと広めたくもなる。生き物たちはこんなにも感情豊かで、けして無表情ではないんだって。

けどそれを広めてどうする? どう思えばいい? どこへ向かう?


ゴキブリを殺すことを可哀想とは、あんまり誰も思ってくれない。ゴキブリや虫はみんな見たことあるからじゃないかな。

野生動物とは深く関わったことがない。可愛い動物動画を見たことくらいしかなく、仕事や生活で獣害を受けることも滅多にない。

さらに、バンビとかごん狐とか、子どもの頃から動物目線の物語ばかり見せられる。さるかに合戦でも、かちかち山でも、「動物はちゃんと反省し、分かってくれる」知能も感情も人格もある存在のように語られる。

よく昔話で「悪さをする◯◯がおりました」なんて言うけど。「悪さ」ってなんだ。

「罠にかかった動物を助けてあげたら恩返しされた」なんて話もあるが、それを聞いた子どもは当然、「罠から動物を助けてあげるのは正義だ」と思うだろう。猟師さんを悪者にする人が多いのは、そんな物語ばかりを読み聞かせ、そういう教育をしてきたからだと言える。本当の現実に関してはトンチンカンなままに。



「熊を殺すのが可哀想」と言っている人。実際、自分の町で熊が大量発生して、身近な人が襲われ始めたら、手のひら返して「熊を殺してほしい」「人間を襲う熊を殺すのはしょうがない」と言うんじゃないだろうか。

哺乳類、魚類、昆虫、植物……命の序列。すべて勝手な思い込み。


自然や動物との共存。まず何をどうすれば良いのだろう。その前に私は何も知らないから、まず農家になった方が何か分かりそうだけど、テレビに出てくるすごい人みたいな、思い切った決断はできそうもなかった。所詮生ぬるい魂だ。


そっか。アーティストになろう。

って言っても「アーティストの道を軽く語ってくれるな!」「芸術のゲの字も理解していない、生ぬるい凡人が!」って批判はあるはずだけど。

どこもかしこも茨の道。人間ってなんであんなに歯を食いしばって苦しそうで、気性荒い動物なんだろう。せめて人間同士くらい甘くすればいいのに。それも不可能らしい。

動物と共存できない、人間とも分かり合えないならば、仲間とは、理想とは、平和とは、人生の目標目的とは。

どうにもならない自分、現実、憤り。
手を伸ばしても届かぬ夢、理想、空想妄想、心象風景。

ごちゃついて絡まってクラクラする。

人間界で落ちこぼれの私はどうせ、生産性のない穀潰し。地球の資源を食い潰すだけの害獣。それでも人間という化けの皮を被り、「人権」を振りかざして生きるのだ。



この思いを形にすることが芸術。
それをする私は芸術家じゃないか!

そう、ただの売れない芸術家なのだ。

一見悩んでいるようでいて、実は意外とそうでもなく、自分がラクに楽しむことだけを考えている。
人に平気で心の重荷を背負わせる卑怯な心の内も、気まぐれな涙も、すべて合わせて、グダグダと表現することこそが私の芸術なのだ。

幻を見せてこその化け狸だし。






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