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第7回「そう、結局」

「障害のある人が普通に過ごせるような一助が自然と起こり、彼らと一緒にいることが特別と思わないような社会にしていきたい!」友達の1人がこのように話していました。

前回の記事「価値の転換が起こりうる場をつくりたい」で触れましたが、
障害のことを知らない→知っている
障害者のことなんて関係ない→関係がある
わたしの生活において障害者を意識しない→意識する
とスライドさせていくことが、障害に対しての特別感を限りなくゼロにしていくきっかけとなります。

働き始めた頃からずっと付き合っている脳性マヒで肢体不自由な車椅子の人がいます。彼は手足がほとんど動きません。
彼と出会った頃のぼくは、障害のことを知らないし、障害のある人と接する経験はほとんどありませんでした。介護をするのは初めてだったので、彼に関する何もかもが特別な行為でした。
車イスを押して、買い物に行くこと。熱々のラーメンを食べるのをサポートすること。彼が喋ったことを文章にまとめること・・・。
彼がしたい行為をし、彼らしい生活をし続けいくには、他者からのサポートが必要です。彼と接することに慣れていないときは、サポートすることに緊張し、介護を特別な行為と捉えていました。

でも彼と何回か顔を合わせ、一緒に過ごし、介護をし、関係性を構築すればするほど、彼と過ごすことが特別なものから自然なものへと変化していきました。
障害はそこに存在しているんだけれども、どこにも存在していないかのようにぼやけていく感覚になりました。というのも、どのようなアプローチをすれば、彼らしく過ごせるのだろうかって自然に考え、無意識に実行するようになったことが起因しているのでしょう。

例えば、耳の聞こえない人と友達になったとします。その人を含む数名で旅行に行くことになったとき、耳の聞こえない人が楽しめるにはどうしたらいいだろうかと考えます。その考えた配慮を耳の聞こえない友達に提案します。「わたし手話ができないから、筆談するためのノートとペンが欲しいな」「向かい合って話して欲しいな」など何かしらの返答があります。これらを繰り返すことで、その友達と関係性がつくられ、耳の聞こえない人と一緒にいることが特別ではなく、自然なものと変容していきます。

そう、結局、障害のある人と関わることです。話すことです。仲良くなることです。友達になることです。「障害者」と一括りにしても、障害の種類や程度、特性など全く同じなことはありません。困っていることが同じではありません。

だから、友達の1人が抱く理想の社会をつくるには、障害のある人と一緒に楽しんだり遊んだり学んだり考えたりすることが必要です。ぼくは、このような場をつくっていきたい。障害のある人と一緒に過ごすことで、障害がグッと身近になる。考える余地がうまれる。そこから会話が生まれる。友達になる。シンプルなことなんだけど、重要なことです。少しのきっかけが大きな一歩をつくっていくのです。

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