長崎大准教授のテロ擁護論から考える、人文学者の硬直性
また、学者先生の暴走だ
長崎大学准教授の森元斎氏が、テロ礼賛論といってもいいようなものを出した。
また朝日か?と思った人もいただろうが、朝日ではない。
この部分からわかることは、この記事自体、「著者インタビュー」という体裁での、一種の書籍プロモーションであるようである。
「集英社」による下記の本(こちらの版元は集英社インターナショナル)の炎上マーケティングかもしれない。
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安倍元総理暗殺事件に関して
さて、週プレニュースの記事はのっけから強烈である。
もはや炎上するのはわかりきっているだろうとしか思えない…
「テロ賛美」であるように受け取られて批判されるのは当たり前である。
まあ、炎上マーケティングとしてうまくいくかは分らぬが、とりあえず、それなりに「炎上」はしている。
ただ、ここまでなら「ある種の暴力はエポックメイカーとして機能することがあるということの印象的な例を述べただけ」という言い訳はできるにはできる。
まあ、そういう想定だろうから、そこはしっかり外して考えていきたいところである。
「暴力」の概念拡張と「暗数」を前提にして「被害感」を膨張させる森氏
この部分、「暴力的」という用語を使い「暴力」範囲を拡張するとともに「表ざたになっていない被害数=暗数」を根拠にして「暴力」を「身近にあるもの」という印象を与えている。
なかなか小賢しいが、その手の言い換えは、フェミニスト諸氏がよくつかう「女性差別的」と同じであり、既に食傷気味である。
テロリストによるテロ、要人暗殺等
社会運動家の「暴力を伴う運動」の巻き添え的な殺傷事件
運動家同士による粛清や内ゲバによる殺傷事件
その他の殺傷事件
これと、森氏のいう「暴力的なもの」との隔たりは大きいだろう。
1960-80年台、内ゲバで亡くなった人は、案外多い。そういった経緯を知らないのだろうか?
法治にあまりありがたみを感じていないかも
人間生きてりゃなんだかんだで他者に侵襲性をもって生きている。
なので、それなりにやり過ぎずに、平和に暮らすために、道徳や法といったものがあるわけだが、「構造的暴力」を持ち出す人というのは、そういったものを「上からの押し付け」と解釈し、その枠組みを破壊して「自治的」であろうとする。
森氏は、法治のありがたみをあまり感じていないのかもしれない。
いま君らがこーいうこと言ってられるのは「体制」がそれなりに機能しており、それなりの「法治」の枠組みを重んじる人が多いからなんだが…、と言いたくなるが、ナイーブな人は上図の青矢印の範囲の事象を「構造的暴力だ」といいたてて、枠組み自体を破壊しようとするのだろう。
「治安」についての煙幕
やれやれ…治安維持法は1925年に制定されて、同法による検挙者数が多かったのは昭和一桁台である。名前が「治安維持法」だからといって、「今でいう治安」を目的とした法律ではない。
当時の政治情勢として、共産主義の流入や、大規模な宗教の成立など、国体の変更を目指す勢力、私有財産制を否定する勢力、過激な労働運動を扇動する勢力等の、急速な台頭という問題があり、それ防ぐための法律であったと思われる。
治安維持法はその「運用」において、人道上の問題等、さまざまな批判(同法で不利益を被った層からの批判はそりゃ多いだろう)があることは確かである。
しかし、市中の「今でいう治安」に関係が深かったとはいえず、「字面に「治安」を含むから」、「戦時中に運用されていたから」というだけで、これを持ち出すのはいささか教養に欠けると感じざるを得ない。
これもまた安直すぎる結び付け方だろう。どこのどんな暴動を言っているのか?
これが1ページめの最後の記述なので、次のページで詳細が語られるかとおもいきや、この話はこれで終了で、次のページは「構造的暴力」の説明が始まってしまう。まあ、詳しくは本を読めということなんだろうが…。
つらつら読み進むと、どうやら「構造的暴力論」をベースに、「上から下に対する構造的暴力」に対峙するための「ヒエラルキーの下から上に対する暴力は、肯定せざるをえないものもある」ということをいいたいようだ。
開いた口がふさがらなくなってきた。
さあ、冒頭部分からをもう一度引用しておく。
「安倍晋三の悪事」は「断罪すべきもの」という認識が入っているように燃える。そしてそれが、暗殺という「暴力」によって実現され、「悪事が明るみに出た」ということのようだ。
まあ、暴力というのはどうしようもなく、変化を引き起こしてしてしまうケースはあるのだが、暗殺のような事件を、賛美するかのうよう発言をしちゃうのは、現職の長崎大の准教授としていかがなものだろうか?
(とりあえずもって回ったようないいかたをしておく)
「正攻法で断罪できないから暴力容認!」というような思想は到底容認できるものではないだろう。
「長崎」といえば
森元斎氏は長崎大の准教授である。
長崎大は、日本最古の西洋式医学校を起源としでできた旧制の長崎医科大学(1923年)を母体とし、戦後に長崎の師範学校や専門学校等を統合して総合大学となった国立大学。
長崎大の本拠がある長崎市といえば…市長が二回も銃撃されたという経験を持つ市である。
1990年に本島等市長(当時)が銃撃により重傷を負い、2007年には伊藤一長市長(当時)が、銃撃により死亡している。
本島等氏は、後に「加害者を赦す」としているが、クリスチャンであったため「原罪+赦し」のセットモデルで本人的には矛盾がなかったのかもしれない。だが…本邦におけるクリスチャン比率は、非常に低いのである。
そして、伊藤一長氏も、安倍晋三元総理も、命を落としたために、その後言葉を発すること叶わなくなっている。
長崎の地にある長崎大学の禄を食みながら「テロを肯定」というのは、森元斎氏が好むと好まざるとにかかわらず、一定の意味が発生してしまう。
「構造的暴力のヒエラルキー」が大前提という不思議さ
読み進めると…
「構造的暴力」に抗う暴力の発露(これを森氏は「反暴力」と呼ぶようだ、ややこしい)は否定すべきでないというご意見のようだ。
ならば「長崎市長」に対する「右翼の暴力」も否定するべきではないのではないだろうか?
まあ、それは「右翼だから悪い」で否定されるのかもしれない。
いわゆる「左翼」に殺されそうになった人から見たら、市長の急激な左傾化は上位から下位への「抵抗」であったかもしれないではないか。
そしてなにより「構造的暴力」があると仮定しても、その「ヒエラルキー」のように、上下関係(一つの軸)でとらえられるほど単純であるとは限らない。
私の目から見たら、浅沼稲次郎へのテロも安倍晋三へのテロも同じである。
森氏の目には「違う」と見えているのかもしれない。
「肯定されるべき暴力的抵抗か?そうでないか?」を誰が決める?
森氏のいう「暴力的抵抗」は、緊急に生命が脅かされた際の正当防衛というものとは、違っている模様である。
「脅かされている側」による「暴力的運動」と位置付けられさえすればオッケーという話になる。
さて、BLM支持のご様子。まあ、これはちょっとおいておいて「横暴な警察の権力」という大前提がやはり気になる。
警察を常に「横暴であり抵抗していくべきもの」と位置付けているというのは、不思議な話である。
そして
「こっちは抵抗勢力だから暴力も許されるべき」
の考え方は、案外危険である。
暴力性のエスカレートというものを無視しているように思う。
とりあえず「渋谷暴動事件(1971年)」を挙げておこう。
当時進みつつあった沖縄返還交渉に関連して、中核派の起こした暴動である。
新潟から派遣されて警戒にあたっていた警察官の殉職の件で有名な暴動であるが、その他にも火炎瓶の投擲を中心とした襲撃は多数。
暴力をちらつかせた脅しもオッケー?
まあ、アナキストだそうだから、こういう考えになるのだろうが、森氏は日本にもラディカルな社会運動が広がったらよいと考えているようである。
しかし、お行儀よくしていたら思うとおりに世の中が変わらないので、暴力をちらつかせろ…というのは、カタギのやり方ではない。浅沼稲次郎を刺殺した右翼のやり方と同じであり、長崎市長を銃撃した右翼のやり方と同じである。
左右とも、両極端はやることが同じであるとしか思えない。
ご本人は「あくまで脅しである」と言い張るかもしれない。だが、森氏ご推奨のBML運動も、かなり悲惨な巻き添え被害を出している。
それなりに権威のある誰かが「やっていい」と言ってしまうことによってエスカレートする懸念はある。
集団化によって暴力は暴走する例は枚挙にいとまがない
さて、またここで「左翼過激派同士の内ゲバ」の話を持ち出そう。
1960~2010年の間に、内ゲバによる死者は100人に及んでいる。
被害者も若者が多く痛ましいと思う。
内ゲバとなると…、どちらも「自称 体制に対する抵抗勢力」だ。
「自称 体制に対する抵抗勢力」同士でも、対立はするし、タガが外れると内ゲバという形で「暴力」がエスカレートする。
内ゲバは発生当初から警察が介入するということは少ない。つまり森氏の言う「横暴な警察権力」は介在しないのである。
すなわち、もはや「体制への抵抗運動」ですらない。
内部論理的には「我々に与しないあいつらは体制側」というラベリングの方法が駆使されるようであるが、傍目には「内ゲバ」でしかない。
「社会変革運動のための暴力は容認されるべき」という思想こそが、暴力のエスカレート、そして悲劇を生むのではないだろうか。
そういった意味で、「造反有理」や「構造的暴力論」を振り回して、「体制に対する抵抗だからヨシ!」と、気軽に暴力を容認するような思想家達は延々と間違いを犯してきたといえるのではないだろうか?
別に森氏に始まった話ではない。昔からそういう学者連中はいた。
煽るだけ煽るものの、派手な活動の先頭にたつわけではないので批判されにくかっただけである。
もう一つのインタビュー記事
検索したらこんな記事が出てきた。
森氏はどうやら「アカデミックハラスメント」の被害者であるらしい。
まあ、経緯はいろいろあるのだろうが、常に「反体制側」にご自身を置いてこられたようである。
「抵抗側=反体制側」にいないと不安なんだろうか?
「被害者側」「弱者側」「抵抗側」に自分を位置づけておくために、言葉をこねくり回していると考えると、割といろんなことが腑に落ちる面はある。
(ちなみに、このメディア、アカデミックハラスメントに対して声をあげようという感じの団体のようだが、割とクセが強い。
アカデミア内のキャンセルカルチャー?と言われた、オープンレター騒動の当事者でもある北村紗衣氏の、一方的な被害語りを含むのインタビュー取材も行っている。まあ「大学当局のと闘う反体制側」としてのアカハラ反対といったところだろう。)
それにつけても、国立大学の常勤職を得ながら「抵抗側=反体制側」でいるつもりというのは、やはり面妖としかいいようがない。
41歳で単著も数冊あり…ということであれば「メディア権力」という権力側にいるとみることもできる。
「民衆運動は常に勝ち続ける」という謎の図式
森氏はディビッド・グレーバーを引き合いに出しながらこう語る。
アナキストというのは、運動によって孤独の解消ができれば、それだけで勝利を自認できるのか…と、その明快な考え方にちょっとびっくりした。
常に民衆側に立っているはずという、彼の信念は「孤独が解消された」という己が体験と深く結びついているがために揺るがないのだろう。
森氏に限らず、この手の「抵抗運動」の類をやっている人は「孤独」に弱いような気がしないでもない。ひとりでも始めたらいい…というようなことをよく彼らは言うが「集まる」ことに特別な価値を見出し、それを「勝利」という概念と融合させていく。
そしてそれがゆえに「他者を巻き込む」ということに躊躇がない。
「孤立・孤独」こそが最も忌むべきものであるのかもしれない。
終わりに
それにしても…「抵抗される側」になるかもしれないという可能性を考えていないというのは、浅い。
なぜその方向性の反転の可能性を想像できないのだろう?
あれこれ「こういう視点をもつべき」を言い立ててはいるが、自分を常に「被害を受ける側=抵抗する側」に置くという手法に、発想の硬直性を感じる次第。
「変革」っぽい雰囲気だけで大喜びしてオウム真理教を推しちゃったり、サリン事件以降も香ばしい発言を繰り返した中沢新一の時代から、変わらずにいる学術関係者は案外少なくないのかもしれない。
森元斎氏は、大学学部時代に中沢ゼミに所属し、中沢新一大きな影響を受けたそうだ。
なかなかのホラーである。
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