見出し画像

瞑想でサマーディになるとどうなる?

はじめに

こんにちは!
瞑想実践研究科の心庵まもるです。
noteでは瞑想に纏わる情報発信を行っています。
瞑想実践の方法やその結果としての効用、また瞑想に関する雑記なども書くことがあります。

内容のベースは自身の瞑想実践に基づく研究の結果をお伝えしているものです。
時々、脱線することもありますが、お付き合い頂ければ幸いです。
また、私は著作活動も行っています。

現時点では4冊の著作Kindle(電子書籍)、POD(紙の本)という形式で出版しています。
どれも瞑想を起点とした日常にある様々な課題や問題と向き合うテーマです。

自己紹介がてら以下にリンクを張っておきます。
宜しければ覗いてみてください。

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【Kindle版】

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【POD版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【Kindle版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【POD版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【Kindle版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【POD版】

★健康の9割は心で決まる!今日から始める瞑想習慣のススメ【Kindle版】

★健康の9割は心で決まる!今日から始める瞑想習慣のススメ【POD版】


何故、このように瞑想の本を起点とした執筆活動をしているのか。
その点については下記記事で語っています。

また、瞑想を広げる活動をしている理由については下記記事を参照してみて下さい。

前置きが長くなりましたが、以下より本編の記事になります。

1.サマーディとは何か

瞑想は私たちにどのような変化を与えてくれるのか。
世の中の瞑想に関する情報は様々なことを示唆しています。

・集中力向上
・ストレス軽減
・仕事のパフォーマンス向上
ナド‥


色々なことは唱えられていますが、これらは結果として得られる効能です。
そうではなく、瞑想実践でもっと直接的に実感できる変化はないのでしょうか。

もちろん、あります。
それはサマーディと呼ばれる心の状態です。

サマーディとは日本語では三昧(ざんまい)と訳されることもあります。
何かにどっぷりと浸かりこむことを○○三昧などと表現しますよね。

ゴルフ三昧、仕事三昧、読書三昧…などいうこともあるでしょうか。
この表現は必ずしも瞑想上のサマーディの説明にはなりませんが、心の状態の特徴を捉えてはいます。

瞑想を始めると最初は何がしかの対象への集中を求められます。
呼吸の瞑想法であるならば、呼吸への集中。
歩く瞑想法であるならば、歩くという動作への集中です。

集中しようと試みると心の中に溢れてくるものがあります。
それは雑念です。
瞑想の場合、対象以外の事柄は全て雑念として扱われます。

対象へ意識を集中して注いでも、雑念が湧けば、そちらに意識が向きます。
その都度、意識を対象へと引き戻す。
瞑想を始めた初期には、集中は断続的に行われるのです。

しかし、雑念はいつまでも湧いてくるものではありません。
最初は乱れて波打つ湖面のような心の状態も段々と落ち着いてきます。
そして、気が付けば水平に佇む澄み切った湖面のように心は穏やかな境地となります。

これが瞑想におけるサマーディと呼ばれる現象です。

2.サマーディは「悟り」なのか?

瞑想によりサマーディが起こると、とても穏やかで心地良く感じます。
心に存在して私たちを苦しめている悩みや葛藤は最早そこにはありません。
それどころか、一切の思考もなくなり、まるで自分が存在しなくなったかのように感じることもあります。

人によっては、恍惚感や絶頂的な快楽を覚える人もいるのです。
そのことからサマーディを得る目的で瞑想する人もいます。
それでは、サマーディを得ることこそ、瞑想の目的なのでしょうか。

残念ながらそうではありません。
また、良くある誤解としてサマーディこそが悟りの境地だと考えてしまう人もいます。
しかし、それも、また間違いです。

サマーディとは瞑想の中で起こる一つの心理的現象に過ぎません。
サマーディが起こったからと言っても、それだけで何か人生が一変するということではないのです。

サマーディが起こることで、余計な思考、思念が鎮まるので、何か特別な境地が開けたと勘違いしてしまう人も多くいたりします。

しかしながら、瞑想より起こるサマーディは、瞑想を解いてしまえば途端に失われてしまうものです。
最初は何物にも囚われない無の境地に立ったように感じても継続性はありません。

「悟り」に至ったというならば、生き方、感じ方が変わるはずです。
サマーディが起こるというだけでは、「悟り」を開いたとは言い難いでしょう。

では、サマーディが起こることには何の意味もないのでしょうか。
サマーディの意義について少し考察してみたいと思います。

3.サマーディの意義とは?


サマーディは一時的に思考、思念が停止する現象です。
しかし、単にそれだけで説明できるものではありません。

そもそも、サマーディは何故、生じるのでしょうか。
先程も説明していますが、瞑想は対象に集中することを求めます。
では、集中することがサマーディの原因だというのでしょうか。

もちろん、それは一つの要因だと言えるでしょう。
しかし、集中しているだけではサマーディは起こりません。
集中していることすら意識から抜けてしまうこと。

ただ、あるがままに対象と一体になることでサマーディは起こるのです。
サマーディになると今まで認識出来なかった対象の特徴、それからダイナミックに変化する様にも気づくようになります。

認識を阻害し解像度を下げていたノイズがなくなるからです。
サマーディが起こることで一層の観察が進むことになります。
これは無意識を破り、真実が露わになる瞬間とも言えるでしょう。

瞑想において、この気づきの体験はとても重要だと言えます。
何故ならば、私たちが悩み、葛藤して迷うのは、ありのままの真実を理解しないからです。

自己の中で思い込んだ間違った情報に振り回されるから悩み、葛藤が生まれる。
だから、真実を一つひとつ明らかにしていくことで、余計な思考も雑念にもとらわれなくなる。

これが本当の「悟り」であり、瞑想を解いても戻ることはない境地なのです。
その境地になるためには真実を知る観察を続ける必要があります。

そして、真の観察をするにはサマーディが必要だと言えるでしょう。

4.サマーディの段階

サマーディは「悟り」ではない。
しかし、サマーディなくして「悟り」に至る道を歩むことも出来ない。
「悟り」は兎も角、瞑想を深めていくためにはサマーディは、必要不可欠な要素と言えるのかも知れません。

ただ、サマーディと言っても実は様々な定義があり一本化されているわけでもありません。
宗教や流派、瞑想に対する考え方の違いにより定義も微妙に異なる場合もあります。

そんなサマーディに関する見解ですが、それなりに細かく定義しているところもあります。
それは仏教です。

仏教の開祖はお釈迦様になります。
お釈迦様は瞑想により「悟り」を開いた後、様々な教えを残されました。
その中にサマーディに関する教えかあります。

仏教においてサマーディは「禅定(ぜんじょう)」と言う言葉で表されています。
お釈迦様は禅定には九つの段階があると説かれました。

結構、細かく定義されています。
もう少し、ざっくり分けると三つの禅定があるとされています。
その内訳は以下の通りです。

1.色界禅定(しきかいぜんじょう)
2.無色界禅定(むしきかいぜんじょう)
3.漏尽定(ろじんじょう)

以上の三つになります。

正直、どれも聴きなれない言葉かも知れませんね。
一つずつ簡単に解説します。

1.色界禅定(しきかいぜんじょう)

色界(しきかい)とは簡単に言えば物質の世界を意味します。
私たちは身体を通して様々な刺激を受け取り、心の中で感覚として生じさせます。

だから、私たちは常に自分の肉体があることを感じて生きていると言えるでしょう。
物質的なものにプレゼンスを高く持っている状態。
このようにも言えるのかも知れません。

色界禅定とは、まだ物質的なものへのプレゼンスが残っているものの、それ以外の妄念妄想、思考などが治まった状態のサマーディである段階だと言えます。

2.無色界禅定(むしきかいぜんじょう)

無色界(むしきかい)とは色界の否定。
即ち、物質的な感覚を超えた世界を指す言葉です。
色界においては、どこまでも思考という実態を持たないものが鎮まった状態のサマーディを実現しました。

ところが、物質感覚はまだ残っているため完全な静寂とは言えません。
身体感覚をはじめとする物質感覚。
この世のあらゆる物質に関するプレゼンスが消えた時に無色界に入ることが出来るのです。

無色界と言われても、刺激を常に受けながら生きている私たちにはちょっとピンとこないことかも知れません。
このサマーディは普段の生活において中々、生じるものではないと思います。

とことんまで瞑想におけるサマーディを追及している時には表れることがある特別な境地だと言えるでしょう。

3.漏尽定(ろじんじょう)

無色界禅定は瞑想のハードコアな実践でしか現れない世界。
そんな風に言えるかも知れません。
では、無色界禅定が瞑想におけるサマーディの最高の段階なのでしょうか?
そうではないのです。

実際のところ無色界禅定は九つの段階の内、最高状態になれば第八段階のサマーディに達したと言えると定義されています。
相当にサマーディが極まった状態だと言っても良いでしょう。
しかし、お釈迦様はその上があると説くのです。

第八段階の一段上。
第九段階の最上のサマーディ。
漏尽定(ろじんじょう)とは一体どのような境地なのでしょうか。
それは中々、言葉で表すことは難しいと言えます。
というより理屈を超えた世界と言っても良いので、そもそも言語化することが不可能なのかも知れません。

何を語っても間違えてしまいそうではありますが、一つの解釈として誤解を恐れずに述べてみます。
漏尽定(ろじんじょう)とは言ってしまえば涅槃寂静
「悟り」そのものの状態だと言えます。

しかし、これは単なるサマーディとは違います。
自己という存在。色界、無色界も関係なく、全てのプレゼンスが消え去ってしまった状態だと言えるでしょう。
もう、この段階で論理的には矛盾が沢山、指摘されそうです。

完全に全てが消失する。
消失を確認する存在自体も消失する。
一切の消失。

どれだけ言葉にしても凡人である私には説明することは出来ません。
仏説によれば、このサマーディに到達すると傍から見ると死んでいるように見えるといいます。
言葉上の定義としては完全なる悟りの体験と理解しておけば良いのではないかと思います。

まとめ

本稿ではサマーディについて考察してみました。
まとめると以下のようになります。

1.サマーディとは何か?
  ⇒ サマーディとは瞑想の集中と観察の中で生まれる没入した心理状態

2.サマーディは悟りなのか?
 ⇒ サマーディは「悟り」ではない。

3.サマーディの意義は?
 ⇒ サマーディは正しく観察できる心理状態

4.サマーディの段階
 ⇒ 九つの段階があり、色界禅定、無色界禅定、漏尽定の三つにカテゴライズされる

詳しくは各トピックで解説していますので、まとめから読んでいる方は是非、参照してみて下さい。

長い文章をここまでお読み頂きまして感謝!

心庵まもる




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?