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キャッチボール

「ボール、捕れるようになったなあ、少しずつ上達してきているぞ。この調子…」

自宅から坂を下った窪地にある公園に小さなグラウンドがある。今日は日曜日。旦那も私も久しぶりの休日。

日照りがまだ穏やかなうちに、娘は私達を叩き起こしてきた。眠い目をこすり、ゆっくり寝たい気持ちを抑えながら寝床を後にする。

旦那は、なぜ娘に起こされたか咄嗟に感じたのだろう、直ぐに身支度を整えている。

「ユキ、マイと先に行ってるわ、後で来いよ、先にやってるね」

私は支度が遅いことは長年連れ添っているため、旦那のマコトは心得ている。こんなとき、口元を上向きにして垂れ目のスマイルを私にいつものように向けてくる。マコトはマイと二人で、グローブ片手に玄関を飛び出して行った。



 娘のマイは今年から中学生になった。小さいときから、運動には無縁で、完全なインドア派だった。

漫画家になりたいと言ってたくさんノートに書いている娘、物語を書く着眼も面白く、たまにこっそり見せて貰うと、小学生なのにやたら大人びた人物像が浮かび上がってくる。

親バカかも知れないが、天性の才能を兼ね備えているのではと思ったほどだ。そんな娘を観ていたマコトは、『好きなことをやらせればいいよ、大成することより、興味を持ってチャレンジすることが大事。教え子が変わるときはいつもそうだからなあ』と、私によく言っていた。

 マコトは今、学習塾で子供たちの指導に当たっている。仕事の話を家ではしない。愚痴をこぼそうものなら、『必ず先入観を持って接してしまうから』が口癖だった。

正直、旦那の授業している姿を観たことは全くないし、どんな接し方をしているか知らない。

人に対して想いをもって接している姿勢は、教室のメンバーがたまに自宅に来て、ご飯を食べ、メンバーひとりひとりと愉しく会話しているときに垣間見える。本当に慕って貰えるように努力しているんだなと感心する。

マイは中学生になってソフトボール部に入部した。今までロングヘアだった髪もショートに変えて、日増しに小麦色に焼けた風貌に変化している。

当初、美術部か吹奏楽部に入りたいと本人は言っていた。色々部活見学しているうちに、ソフトボールに目が止まったらしい。

『だって、先輩が格好いいし私は初心者だけど上手くなりたいんだ』

マイは悩んだ末、決断した。こんなこともあるんだなと思いながら、私達はマイの後押しをすることに決めた。

私以上に嬉しかったのは、マコトだったかも知れない。

一人娘で男性がマコトだけということもあるだろう。多数決をすれば女性陣に押し切られてしまう。

あまり言葉には出さないが、何か一緒に出来るスポーツをしたいと思っていただろう。

マイがソフトボール部に入りたいとマコトに言ったときの、屈託のない笑みは今まで見たことのない表情だった。

『やりたいことを一生懸命やってみたらいい。応援するよ』

直ぐに、マコトは今まで自宅には無かったグローブとボールを近所のスポーツ用品店で私の分も加えて三人分購入しに行った。マコトは少ない小遣いで全額支払ってくれた。

マコトは苦笑いしながらも娘と一緒にキャッチボールが出来ることをとても嬉しがっているのが、表情から節々に見て取れる。

少し遅れて、私は坂を下ったところにある公園に顔を出した。マイとマコトがお互い笑顔で白球に勤しんでいる。

グラウンドには、サッカーをしている幼児と父親、フェンスに向かってトスバッティングをしている野球少年と父親がいる。休日だからだろう、父親が多く、見ていてほのぼのする。

私がやっていたのに気づいたのだろう。マイが大きく手を振りながら大きな声で出迎える。

「かあちゃん、やっと来た、ここだよ」

マイは幼い頃から、私達のことを『かあちゃん、とうちゃん』と呼んでいる。流石に人前では母、父で呼ぶけれど、普段からずっとこの言い方だ。

マコトはマイの様子を見て振り返った。ちょっと疲れた顔を見せつつも、目は笑っていた。私も、手を振って二人に応えた。

私はグラウンドの横をペタペタ歩きながら、近くにある木陰のベンチに腰を降ろした。二人とも、額に汗を滲ませている。

「ちょっと、休憩しよう」

マコトは、マイに通る声をかけた。マイはホッとした様子で頷くと、二人は私のいるベンチに向かって歩いてくる。

「かあちゃん、水筒…」
立ったまま、マイは私が持ってきた水筒に目をやりながら言った。

「はいこれ。あれっ、マイ、肩幅大きくなったんじゃ…」

私が差し出しながら伝える。マイは喉を鳴らしながら水筒の麦茶を飲むと、ちょっと膨れっつらをしながら私に言い返してきた。

「あんまり嬉しくないよ、最近シャツがキツくなってきたし。今どきの中学生、体格は気にするんだよ、ホント分かってないなあ」

「まあまあ、運動するには、それなりの体格が必要だからなあ。この間、グローブ買いに行ったときに居た高校生のお姉さんはしっかりした体格だったじゃん、ソフトやっている子…」

マコトは二人のやり取りを聞き、口を挟んだ。

「とうちゃん、そうだけど、やっぱり…ただ、小学校のとき、あまり着なかったジャージが最近楽だって気付いた。まだブカブカだし…」
 
今、着ている青ジャージをまじまじと見ながらマイは言った。

「年頃の娘は悩みも多いかあ、これは失礼しました。でもマイは上手くなりたいんだよな、まあ、仕方ない。なあ、ユキ」

マコトは苦笑いしながら、私に視線を向けた。

「そうだね。しかもマイ、日焼けしたくないっていつも日焼け止めクリーム塗っていたけど、もういいやって言っていたよね。面倒くさいんでしょ、本当は」

私は、ニヤっとすると水筒に口をつけているマイに言った。マイは少し咽り、咳をしたあと、真剣な顔をして言い返す。

「そんなことないよ。日焼け止めクリーム塗ってる!でも、朝から晩まで外にいるからいっぱい吸収していくんだよ。でも周りの同級生や先輩も同じだから、変わらないし。裏腹だね…」

マイはペロっと下を出してニンマリとした。

「マイの言っていること矛盾だらけよね、マコト」
「確かに。今の時期の天気みたいに変わりやすいんだよ、女の子の心はさあ」

私が失笑すると、隣に座っているマコトは、私に微笑みかけた。ただ、疲れてきていているのだろう。一瞬真顔にもなる。マコトは顔を上げるとマイに言った。

「じゃあ、そろそろ続きを始めようか」

「えっ、とうちゃん、もうやるの。分かったよ…」

渋々マイはグローブを手に取ると、グラウンドに走り出して距離を取り構えた。それを見計らってマコトもまた、グラウンドに向かって歩き出した。

適度な距離まで足を進めたとき、遠くから私に向かって張りのある声をかけてきた。

「ユキ、やっぱり楽しいや、娘とキャッチボール出来るの」
「それは良かったね、マコト。本当は一緒にやりたいって言っていたものね」
「昔、よく父親とやっていたときのことを思い出したよ。多分親父も、俺と同じ気持ちだったんだなあって」

私は、頰を緩ませているマコトに向かって、大きく頷いた。それを見たマコトは、視線をマイに向けると、白球をマイに目掛けて投げ始めた。


グローブにボールが収まる乾いた音がグラウンドにこだまする。

何故か心地よいやり取りのようにも聞こえている。ボールが二人の間を弧を描いて左右に走っている。

マイが投げる軌道とマコトが投げる軌道は少し違うことも認識出来る。親子とはいえ、感性や考え方も異なるし、力の差も歴然としている。

思春期真っ只中のマイが唯一マコトと共感できること…
正に今行われている光景が物語っている。

「マイ、ボールを取るときは、グローブに入るまでしっかり見ていないといけないぞ、グローブからボールが逃げてしまうぞ」
「分かっているよ、気を抜いただけだよ」

「よし、もう一回…」

二人の掛け合いが、私の耳にも入ってきた。日頃、マコトがマイに話したいことも察していた。この場面だからこそ、言えることだ。全力で娘と向き合っている。


マコトとの長い付き合いの中で、一緒に乗り越えてきたことは数多くある。

私が出来ないと思っていたことを、マコトは出来るよと言って後押しをしてくれた。それがあったからこそ、ここまで愉しく、今まで見たことのない景色を見させてくれている。

こんな気持ちの通い合いが、娘を成長させ、上手くいかないこともあるけれど、今を生きていられているに違いない。


更に、グローブから発せられる音が大きくなった。出来ることが増えていることの表れだ。マコトも私も感じていることは一緒だ。

青空に響き渡る、弾けた音とリズムが、一つの楽曲のように、私達を愉しませてくれている。


二人は、また全身汗まみれになっている。お互い澄んだ目の輝きを放っている。それでも、お互い、何かに憑かれたように繰り返し白球の会話が続いている。

照らしている太陽の光が、一段と強くなっている。

二人は、お互い顔を見合わせながら、本日の終止符を打った。ちょっと疲れた表情を見せながらも、充実した表情で、私の座っている木陰のベンチに向かって歩き出した。

お互い何も口にはしないが、沢山の会話のやり取りを重ねて、ホッとした様子で私を見ている。マイが私に口を開いた。

「お腹ペコペコ、帰ってご飯にしようよ!」

 私は、ベンチから腰を上げると、満面の笑みで頷き、応えた。

「そうだね、美味しいご飯作るから」
「やったあ、早く帰ろう」

公園を抜けて、自宅に帰る坂道を三人で歩き始めた。三人の影が地面に映し出されている。

映っている影は、陽も高くなり三人の身長よりも低く濃く変化している。輪郭のくっきりした陰影は、三人の心の中を更に印象づけるかのように魅せ続けていた…

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