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今日のYOGA。「立秋:予期せぬ/夏の疲れ・胃/甘えたくない・ゆく夏」

昨年の11月からお休みしていた

「YOGA日記」を再開いたします。

出逢ってから8年目のヨガ。
日々続ける中で得た
気づきをつらつらと綴る日記です。

今回からは
二十四節気、七十二候にのせて
お届けしてまいります。


✴︎

立秋・りっしゅう

【蒙霧升降・ふかききりまとう】
8月18日~8月22日頃

<8月18日>

ひざを痛めているはずなのに
少しの間、正座をしてしまった昨日。

着物で和室に入ると
無意識に正座をしてしまうのだった。


曲げていない状態でも
じんわり痛い左ひざ。

その中でした今朝のヨガの間は

・ひざを痛めるまで
 正座をしてしまった「これまで」への反省
・「昨日」正座をしたことへの反省
・ひざの痛み

の3点にとらわれ続けていた。

意識のほこさき
この3つへ順ぐりに向かっていく
ような感じだろうか。


ヨガの教えの基本にある
「執着しないこと(アパリグラハ)」

これができていなかったぁと
つくづく思った。

左ひざ以外の身体の部位のこと
(頭も首も肩も腕も胸もおなかもおしりも
右脚も足首もつま先も)を
すっかり忘れて!

気づけば痛みのあるところへばかり
意識を向けていた



ヨガを始めて8年。
いまだ基本のなっていないことに
ちょっぴり落ち込みながらも


「ひざを痛めること」のような
予期せぬハプニングは

慣れてきたことを続けている途中において
基本に立ち返らせてくれる
きっかけ
なのかもしれない

基本の大切さを
身をもって思い出す機会

くれているのかもしれない

ということことも思った。



<8月19日>

夏の疲れがでてきた。

「胃」がざらざらしている。

疲れはかならずといっていいほど
身体の弱い部分にあらわれるみたいだ。


一度胃を休ませないと、と思い
お昼ごはんを抜き

ヨガをする。


まず選んだのは
わたしの胃ともっとも相性のいい
「キャットアンドカウ」。

「キャットアンドカウ」

四つん這いになり
背中を反らせること丸めることを
くり返すこのポーズは

背中とおなかを気持ちよく
伸ばせることに加え

ゆったりとした一定のリズムで
呼吸に合わせ
身体を動かすので自律神経も整う



胃が不快感を感じるというのは
身体が求めていないことを続けた、生活の結果

この頃の暮らしの中で
戦うモードの「交感神経」が活発な
時間が多かったのだなと省みる。


胃の不調という結果が出る前に
自律神経のもう一方、
リラックスモードの
「副交感神経」を意識して

ゆったりする時間を心がけたら
よかったと思うものの

不調が出てから
あたふたするのがいつものわたしで。

この自分も受け入れつつ
意識して「交感神経」を休ませる
ことも暮らしの中で必要だなとあらためて思った。




<8月20日>

静かな朝。
しっとりとヨガに集中できた。

その中でまた一つ
「置き換え」ができた。

ひざの痛みのおかげで

「スカーサナ(安楽座)」を
「仮のスカーサナ」に
せざる終えなくなってしまったことを
以前書いたと思う。

また、ヨガの中で
お休みのポーズといわれ

筋力を使うポーズのあと
ひんぱんに求めてしまう
「チャイルドポーズ(子どものポーズ)」が
お休みにならなくなってしまったことも。

「チャイルドポーズ」


それが今日、
「背中をフラットにした四つん這い」が
代わりとしてしっくりくることを見つけられた。

「背中をフラットにした四つん這い」

チャイルドポーズの時のような
気持ちのいい「お休み」の感覚は

ひざが治るまでの間
これで得ようと決める。


<8月21日>

実はこの頃、
朝食前のヨガが減っていた。

もしかすると
これが「胃」のざらざらに
つながっているのかもしれないと
ふと気づく。

ヨガで身体を動かし
「おなかすいたなぁ」と心身で感じてから
朝食を食べることが心地よいと
わかっていながらも

祖母のデイサービスのお迎えが
早くなったという外部的要因から

この1、2か月は
朝目覚めてまもなく
朝食を食べていた。


これは少し生活を見直す必要
あるのかもしれない。

ヨガのための早起きのために
早く寝る。

そのためには
夕食の時間を少し早めてみよう。

そんな小さな、
小さな子どもにもできそうなアイディアしか
思い浮かばないけれど

とりあえず
やってみようと思う。




<8月22日>

そう言いつつ
早く寝つくというのは
案外難しい。

逆に早く寝ようと
思えば思うほどに遅くなり

けっきょく
今日は祖母がデイサービスに
出かけなくてもいいという油断から

いつもより起きるのが遅くなってしまった。

はぁ〜、情けない。


それでも、身体、とくに「胃」が
ヨガをひどく求めていた。

寝坊しておきながらも
「朝食前に、一時間はヨガをしよう」と決める。

今日は母に朝ごはんづくりを任せよう、
甘えてしまおうと。


ところが...

家族の中で食事担当のわたし。

わたしができない日、
朝ごはんに限っては
母がつくってくれるのだった。

それでも「心底任せられない」
自分がいることを、今日は突きつけられた。

・寝坊しておいて、
 ヨガまでするのはわがままでないか
・母に料理をさせるのは、
 負担が大きするのではないか
(掃除、洗濯、祖母の介護にまつわる様々を母は担ってくれているので)
・母は無事に朝ごはんつくれるだろうか

ヨガをすると決めたにもかかわらず
そうした考えが

頭をめぐるのだ。


わたしは時々、母に対して
「もっと信用してくれたらいいのに」
思うことがある。

信じて任せてくれたり、
信じて放っておいてくれたり
してほしいと。


ところが今日のモヤモヤの中で
わたしの方にこそ
母を信じていない
気持ちがあったと
気づかされはっとする。

しかも心の奥深くに。



幼い頃から多かった
母と二人きりの時間。

その中で母の「不器用さ」を
歯がゆく思うことが積み重なり

いつの間にか
母に頼ること、甘えることは
わたしの中で「してはいけない」ことに
なっていた。

その感情を
「凍らせてしまった」感じだろうか。


それでも、側からみれば
母にしか言えないわがままを言ったり
今朝みたいに「お願い」と言わずに
朝ごはんをつくってもらったりして

十分甘えたり頼ったりしている。

それなのに、
頼ったり、甘えたりしたい気持ちは
冷凍庫の一番底に入れるみたいに

暮らしの中でふれられない状態にしていた。


甘えたくはないのに(気持ち)
甘えている(行動)


わたしこそ不器用だなと思う。


甘えた行動をとっても
気持ちの上では「甘えていない」から

その行動自体
わたしの中でないことにしていたようで。

本来は、甘えさせてもらったり
頼らせてもらったりしたら
「ありがとう」というべきところも
ないことにしていたと思うと

長年の「反省」が湧き上がってくる。



ゆく夏。

響き渡る虫の声に
めずらしく後ろをふりかえった。


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