「公」ってどこまでなんだろう?
読んでて考えさせられたTwitterまとめ。
プールの授業の外部委託というテーマについては、
割とポジティブな意見が多い印象だったのですが、
このまとめにある最後のツイートが、ちょっと考えさせられるもので。
「公教育」とはなんだろう?
学校でやっているだいたいのことは、それを専門に、得意にしている民間事業者がいるのだから、
それぞれ切り出してアウトソーシングしてしまえば、わざわざ教員養成などせずとも、それで済んじゃうのでは?とも思うし、
実際やろうと思えば、できなくはないのだろうと思います。
それぞれの分野でその道のプロが教えてくれるのであれば、その方がいい、という人もいるかもしれないし、それで何か困ることある?って、一見すると思ってしまう。
きっと、学校教育の大半を外注化したとして、
それぞれの民間事業者は、自分の担当する範囲だけを「契約」として請け負い、それ以外に関しては責任を負わない、という形になるのだと思います。
でも、多くの人が集団生活を送る学校生活では、1コマ1コマの授業の枠では収まりきらない、悩みとか葛藤みたいなものもきっとあるはずで、
そういったものは、おそらく各専門家の「契約」の狭間に、こぼれ落ちていってしまう。
常に同じ学校という空間にいて、自分の授業という「担当外」のところでも、生徒の様子が目に入ってくる学校教員だからこそ気づくこと、見えるもの、生まれる関係性もきっとあるはずで、
そういうのがなくなる、「合理化」された先で、果たして「恩師」という存在は生まれ得るのか?
そんなことも考えてしまう。
教科教育とか、そういう目立つところはきっとそこまで困らないのかもしれないけれど、
生徒同士の人間関係形成とか、生徒と教員の関係性とか、
そういったものがどんどんドライになっていって、
学校が予備校とかと変わらない、「教科教育を受けるという目的を果たすためだけのハコ」になってしまう、
それが「公教育の衰退」ということなのかもしれません。
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