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誰もが、誰かを気にせず、誰でも助ける社会 ――小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』レビュー②

(※この記事は2019/11/08に公開されたものを再編集しています。)

『その日暮らしの人類学』でタンザニアの小売業のフィールドワークを行った文化人類学者の小川さやかは、『チョンキンマンションのボスは知っている』(以下『ボス』)において、香港のタンザニア人コミュニティを研究することにした。彼らは、香港でビジネスをするためにやってきたタンザニア人の仲介役となって、希望の商品を調達したり、交渉を買って出たり、香港にクライアントが来た場合、香港で使うSIMカードや家族の観光の案内まで行う。本書では、この他にも様々な商取引が検討されている。

誰もが、誰でも助けるから、誰かは詮索しない

 この実態について掘り下げる紙幅はない。ここでは、信用とリスクに絞って、『ボス』を読むことにしよう。それらの観点からして興味深いのは、彼らの発話や行為を見る限り、他者を信頼しているようにも、信頼していないようにも見えるのだが、たとえ見ず知らずの人であっても、助けを求められさえすれば、可能な範囲で、《ただ単に助ける》ということだ。

 香港のタンザニア人は、商業的な旅行者が多く、継続的で均質的にタンザニア人コミュニティへの貢献を期待できない。また、投機性の高い商売をする彼らは、短期間に大金持ちが一文無しになり、その逆もあるというように、経済的にも流動性が高い。多かれ少なかれグレーな商売に手を出している者もいる。こうした事情から、彼らは、互いの背景や素性を詮索せず、助け合いに参加する度合いを問題にしない、という文化を発達させた。

 その文化は、助けの求めに際しては、「なぜ助けられるべきか」「どこまで当人の責任か」「私が損で、当人だけが得するのではないか」といった疑問への関心を脱落させていく。各人は、行動したい範囲で、行動可能な範囲で、ただ単に手を貸す。手を借りる人物も、手を貸す人物も、さしあたり「問題」に対処するだけで、互いの社会的役割や地位に注意を向けない。

「ついで」に助け合う社会

 その手助けのあり様を、小川は「ついでの論理」と呼ぶ。

……彼らの日常的な助けあいの大部分は「ついで」で回っていた。案内して欲しい場所が目的地の通り道なら連れて行くし、ベッドが空いていたら泊めてあげる。〔商売敵に商売のノウハウを伝えるなど〕知っていることなら親切に教えるし、ついでに出来ることなら、気軽に引き受けてくれる。(『ボス』p.243)

もちろん、「ついで」だからこそ、無理な相談がするりと聞き流され、約束も都合に応じて反故にされることもある(『ボス』p. 245)。

 後腐れない助け合いは、他者が「いい人」だから行われるのではない。むしろ、互いに完全には素性を知らない人たちのネットワークのどこかで、ついでに助けてくれる「誰か」に行き遭うだろうという未知への期待に支えられている。私個人としては、「いいね」「役に立った」などのレーティングで「いい人」になった人物でなければ安心できない社会よりも、騙されたり約束を反故にされたりしても、どこか楽観的に他者と付き合う社会の方に「信用」という言葉を使いたくなる。

人間関係をジェネラルにするという戦略

 こうした「ついでの論理」は、自分で全てをこなし、生き抜く力を身につけるのでもなく、資質や価値観が似通った人間と互いを縛るような助け合いの共同体を作るのでもない生き方を促している。それは、人間関係において「ジェネラリスト」であることだ。

 能力や資質、価値観、善悪の基準、身分、人間性の異なる相手と緩やかにつながることで、関係する他者の多様性を確保する。その多様性が生み出す、「ついで」で「たまたま」の助け合いに賭けるのだ。だからこそ、彼らには、誰を助けるか、どのような境遇にあるから助けるかといったことを問わない。ただ単に助ける。情けは人の為ならずとはこういうことだったような気すらしてくる。

 「ある状況では騙したり助けなかったりするかもしれないが、別の状況では信頼に足る人物である」という“If …, then ….”構文のような、状況に応じた人間把握をする彼らは、誰と付き合うべきかを選別しない。政府高官から、商売敵、ビジネスの素人、刑務所経験者、非合法な取引をする者、そして、たまたまフィールドワークに来ていた日本からの研究者であっても、ただ単に助ける。ついでになら助ける。そのことが、いつか何かの助けになるかもしれないし、ならないかもしれない。だからこそ、困っているならば誰であっても、可能な範囲で、「ついで」に助けようとする。

タンザニア人が日本について語ること

 いい加減書き過ぎたので、そろそろ終えねばならないのだが、それでも一つ引用しておきたい文章がある。著者の小川に対して『ボス』の主役が語ったことだ。

彼ら〔=日本人〕は、働いて真面目であることが金儲けよりも人生の楽しみよりも大事であるかのように語る。だから俺たちが、子どもが六人いて奥さんも六人いるとか、一日一時間しか働かないのだというと、そんなのおかしいと怒りだす。アフリカ人は貧しいのだから、一生懸命に働かないといけないと。アフリカ人がアジアで楽しんでいたり、大金を持っていたり、平穏に暮らしていると、胡散臭いことをしていると疑われる。だから俺はサヤカに俺たちがどうやって暮らしているかを教えたんだ。俺たちは真面目に働くために香港に来たのではなく、新しい人生を探しに香港に来たんだって。(『ボス』pp.236-7)

『ボス』を通読すればわかる通り、彼らは彼らなりの仕方で実直であり、真面目でさえある。遊びと区別がつかないように見える行為や、軽薄に思えた振る舞いすらも、彼らなりの適応策であり、投機的な状況を切り抜ける狡知であり、生きていくためのスタイルだ。

 評価経済を推進する“先進的な”社会にとって、彼らは、不真面目で、人を信用しない、胡散臭いことをする人物たちに見えるかもしれない。しかし、この本の最後のページをめくり終えて素朴に思ったのは、私たちの方が、よっぽど胡散臭いのではないかということだ。私たちは、人を計算によって信頼するし、強迫的に「いい人」で居続けようとしている。何のためかも考えず、働くために働きさえする。自分の生活に不真面目だと言っていいかもしれない。

 言うまでもなく、他の社会をうらやむことは危うい。どの社会にも根深い問題や不幸は存在するし、香港のタンザニア人コミュニティもそうだ。実際、著者自身が、彼らとの価値観のずれに苛立ったと繰り返し書いている。加えて、ある文化を都合よく私たちの社会に移植することはできない。それを成り立たせている無数の条件があるからだ。メリットだけを味わうことはできないのだ。しかし、それにもかかわらず、私たちはボタンを掛け違えているかもしれないという思いがじっと手に残る。『ボス』は、そうした感覚にさせる稀有な本だ。

2019/11/08

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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