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「規則」と「信頼」はトレードオフなのか?――ダン・アリエリーほか『「幸せ」をつかむ戦略』レビュー②

(※この記事は2020/03/18に公開されたものを再編集しています。)

他者を管理したいという欲望

 前回は、時代の見通しづらさと、私たちの不安を背景として、「怠惰」や「フリーライダー」に対する怒りが存在しており、それが過剰な「官僚主義」を生み出していることを指摘した。官僚主義的にエビデンスを要求する社会は、パフォーマンス向上ではなく、楽するように見える人間への怒りをベースとしている。こうしたすべてのことが、他者を管理し、掌握したいというコントロールの欲望を背景にしている。

 この「管理と掌握に対する欲望」について、今回は、労働内容や人事評価の観点から考えることにしたい。『「幸せ」をつかむ戦略』(日経BP)において、行動経済学者のダン・アリエリーは、「完備契約」と「不完備契約」という対比を提示した。完備契約は、契約相手にやってもらいたいことがすべて明示可能であり、その労務に対して報酬を払うという関係を指している。「ただ、現実はそうなっていない。ほぼすべての仕事で、職務内容に入らないことが多くある」(p.126)。

 続けていくつかの例が出される。病院の清掃スタッフが、泣き崩れている人を発見したら、スタッフは作業を止めて「どうしましたか」と尋ねるべきだろか。標準的な教師に対して、標準的な学生を相手にするのにすべきことを指示することはできるが、現実には教師も子どもも多様であることを踏まえると、そうした事情を無視して標準的な教師として標準的な子どもに対して正しいとされることをこなすだけの人物に、積極的に報いるべきなのだろうか(p.127)。

 もうすでに言わんとしていることは伝わったかもしれないが、アリエリーの例は説明しづらいので、もう一つ私の友人の例を出させてほしい。

労働の管理と逸脱

 ある友人が、関東の大学で職員をしており、学生に関わる部署にいた。学生関係の事務作業と、学生対応をすることが業務だった。同大学の上層部は、相談数や相談時間の多さを問題視し、学生課の職員を統括する管理者は、相談にきた学生に対する相談時間の上限を一時間と指定することにした。より悪いことに、管理職は、この規則を職員全員に完全実行させようとしたのだ。

 つらい境遇の渦中にあるとき、何とか振り絞って誰かのところへ行き、相談しようと別室に移ったとき、周囲の大人や友人が助けにならなかったことを思い、何が大変なのかを言葉にできず、ただ泣き出すことしかできない、という事態は想像可能だろう。多くの人は出くわした記憶がないかもしれないが、苛烈な状況を生きている学生というのは確かにいる。そして、そういう学生が、周囲に対しては平静を装っていることも少なくない。

 仮に、相談に来た学生が、そういう境遇だったら、家に安心して帰ることもできないとしたら、大学に安心して来ることすらできないとしたら、と想像してほしい。そのような境遇の学生は、往々にして両親や保護者がつらさの一端であることが多く、周囲の大人の中で、何とか頼りにできたのが職員だということがある。そうした知見があるなら、ひとまず、うまく相談してもらえるようになるまで、職務と時間が許す範囲で付き合いたいと思いたくもなるのではないか。

 もちろん、この方針は上司の指定や管理を逸脱している。上司の機械的な指示は、標準的な職員の、標準的な学生に対する標準的な相談であれば十分だったかもしれない。しかし、上司は、どんな相談内容であれ、機械的に切り上げるようにと繰り返し助言した。私の友人が、不当な仕方で仕事時間を使っていると問題視した。一部の学生にばかり関わり、事務作業という全学生に関わる業務を怠る人物に映っていたのである(実際は、そうしたケースの相談時間の大半は、無給の残業扱いにしていたのだが)。

 結局、友人は、上司との対立を厭わないことを選んだ。就業直前にやってきた学生が、泣き出して何も話せないままでいる、そのそばにいるといったことを何度か繰り返し、カウンセラーと協働するうちに、少しずつその学生の相談を聞くことができたという。

 ただし、状況を根本的に解決できたわけではなく、学生の不安を完全に取り除けたわけではない。しかし、それにもかかわらず、職員としても、人としても、なすべきことをしていると言えるのではないだろうか。少なくとも、私にはそう感じられる。余談だが、その友人は上司からの圧迫が増し、軋轢が消えないことから、心身の調子を崩し、部署を異動することになった。

ルールで人を縛る

 よくよく考えれば、規則を逸脱されたり、だまされたり、裏切られたりする事例は、はっきりわかるし、目につく。そのとき、とっさに頭によぎるのは、「二度とこんな風にされたくない」「対策を取ろう」ということだろう。しかし、アリエリーは、ルールを守らせることのコストは見えにくいと指摘し、警鐘を鳴らす。

けれど、そういうときに失う恩恵は見えないんです。なぜなら、人が活躍するのは互恵的関係にあると感じるとき、信頼されていると感じ、自主性を感じるときです。もし、私が人に絶対だまされないようにしようとしたら、そうした要素をすべて奪ってしまうことになるんです。相手に向かって、「私はあなたを信じない。仕事に使える時間をあなたからもらう。仕事に対する意欲も少しもらう」と言うことになる。バランスを取るのが難しい問題ですが、過度にルールベースになる企業、規則に縛られる企業が多すぎると思います。(p.133)

少し整理しよう。管理や掌握への欲望は、「規則」や「指定」という形を取りがちである。労働者は、それに縛られざるをない。「怠惰」や「フリーライダー」に、あるいは、明示的な「裏切り」に怯える管理者は、アカウンタビリティを果たす意味でも、目に見える問題が起こるたびに「規則」や「指定」を用いる。しかしそれが「完備契約」じみた極端なものになるとき、管理者は労働者に対して「私はお前を信じない、お前でなくてもいいが、時間と多少の意欲で規則に縛られていればいい」というメッセージを発することになる。

 ルールを課すときに私たちが守っているのは、組織的な利益でも、社会の福利でもなく、ルールを課すという行為自体から来る、管理職の安心感なのだろう。

組織は習慣の学習装置

 組織の設ける「規則」や「指定」は、管理職が構成員に身につけてほしいと思う「習慣=文化」の表れである。組織は、常に「習慣の学習装置」なのだ。人間の慣れる力(p.33)ゆえに、人は、組織の提示する「規則」や「指定」に影響を受けながら、自身の労働上の習慣を発達させていく。

 何事も「個人」の問題にして原因を放置する組織は、ミスや心配事の報告を隠すインセンティブを設計しているので、隠蔽文化をもたらすだろう。上司が、上から降ってきた規則や指定の奴隷であるとき、部下は上司を頼らない習慣と、上司のくだらない管理から逸脱するための対応力を学習するだろう。当然ながら、アリエリーが強調するような「人を信頼しない」規則や指定は、相互に信頼し合わない労働者を育てるのに多大な貢献をしている。

信頼ベースの組織とは

 アリエリーが、管理と掌握の欲望に基づく「信頼の欠如」に対抗すべく持ち出した処方箋は、結果よりも「プロセス」に報いること、そうした人事評価を採用することである(p.118)。これと並行して、評価や採用上の公正さを制度化し、一部だけでなく組織全体にその公正さを適用することである。結果や数値目標を安易に掲げることは、かえって結果につながらないことが多い。それを求めることで強化してしまう習慣を考慮に入れていないからだ。

 ジェンダーギャップへの対策を例に挙げて、公正さの制度化について補足しておこう。目立った上層部に女性を意識的に登用することは華々しいかもしれないが、それが一般の構成員や中間管理職等のところに適用されていないとすれば、「公正さ」は見せかけのものにすぎない、と構成員にも意識される(pp.203-6)。組織は、構成員に習慣を身につけさせる装置であるとともに、どのような規則と指定を行うかということは、上層部や管理職が、一般労働者とどのような関係を持とうとしているかということの表明である。

 アリエリーが繰り返すのは、人を信頼し、適度に適切な規則を設け、互いに信頼し合う文化を作ろうという提案である。規則で労働者をがんじがらめにし、「怠惰」や「フリーライダー」に敵対的であるような組織は、構成員の意欲や時間を奪い、創造性や主体性をなくし、結果として、組織そのものの効率や創造性すら破壊してしまう。そこに欠けているのは、他者への信頼にほかならず、一度破壊された信頼はなかなか元に戻らない。

 私たちはサンクコストや面子を気にする。作ってしまった規則を捨てるのは難しく、発してしまった指定を自分の責として取り下げるのは難しい。信頼し合う文化を作るにはどうすべきか、「ルールベース」ではなく「信頼ベース」の組織をどう作ればいいのか――アリエリーの言葉は、絶えずこうした思考へと私たちを導いている。


2020/03/18

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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