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イベント「弔いとは何か、コロナ禍に問う死者とのつながり」に参加して

このnoteでもご紹介していたイベント、「内山節先生の寺子屋 『土葬の村』高橋繁行さんを迎えて ー弔いとは何か、コロナ禍に問う死者とのつながりー」が、きのう10月16日に開催された。

第一部は、『土葬の村』の著者・高橋繁行先生のお話。自作の切り絵とともに、土葬の習俗を興味深いエピソードとともにお話してくださった。

土葬の習俗を描いた切り絵は本のカバーにも使われていて、とにかく味がある。しかし葬送儀礼には写真に残されていないものも多いはずで、「どうやって描いたんですか?」と質問してみた。

まず葬送に使われる道具などは、写真を撮っておけばかなり再現することができるそうだ。しかし、写真に撮れない道具や実際の葬送の様子は、「とにかく根掘り葉掘り聞きまくる」らしい(笑)。そうしてイメージの解像度を上げていくのだという。

文章表現だけならば、そこにあるものすべてを書き尽くす必要はない。しかし絵ではそうはいかない。高橋先生の場合、この「切り絵としての表現」が、研究者としての視点の精密さ=解像度を上げることにも役立っているのだろう。

高橋先生が紹介してくれた、土葬にこだわる森崎住職の言葉はとても印象的だった。

「九十歳で亡くなったおばあさんは、例えば二十歳で嫁入りしてきて、七十年間田んぼや畑を耕し村のつきあいをしてきたんです。葬儀会館のお葬式は、それをある日、一瞬で送るわけです。私はそれにどうしてもなじめません。みんなで〝ムダ〟をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」

ムダをいっぱいすることが供養になる。この考え方に、人間が他者と関係を結びながら生きることの意味が凝縮されているような気がした。

質疑応答の時間では、参加者から、「土葬は〝人間の地産地消〟という循環としても捉えられるのではないか」というようなコメントがあった。

高橋先生はそれに共感しながらも、一方で現代人は自然から切り離された存在でもあることを指摘し、むしろ地産地消を離れた「土に還りたい」という素朴な〝思い〟のようなものを中心に据えることの必要性を語った。

休憩をはさんで第二部では、高橋先生と哲学者・内山節先生によるトーク。

内山先生は、「かつては死だけでなく、生まれることもまた共同体と共にあった」と述べ、「雪隠参り」の風習を紹介。

「共同体で生まれ、共同体で生き、共同体で死んでいった」かつての人間が、現代では「個人として生まれ、個人として生き、個人として死んでいく」。それがさまざまな苦しさを生んでいると語った。

「いのちというのは、一体誰のものなのか?」という内山先生の問いかけは、弔いとは何かを考えるうえで本質的なものだと思った。

死に際して一番良くないのは、死者が「自分の死を了解できないこと」だと内山先生は言う。だから葬送は、死者に対して「あなたは死んだのです」と死を了解させ、「安心してあの世へ行ってください」と送り出す儀式でもあるという。

ほかにも、「〝魂が存在するから〟供養する」のではなく、「自分と故人との〝関係が魂を存在させている〟」という話もあり、参加者からは「これまでの人生の中でモヤモヤしていたものがスッキリした」というような声も聞かれた。

その後の質疑応答、参加者全員での分かち合いの時間も大いに盛り上がった。土葬という弔いを、単に民俗学的な知見として受け止めるのではなく、それぞれが自分の死、自分の大切な人の死と結びつけて、自分の問題として解釈しようとしていることが非常に印象的だった。

ここではとうてい語り尽くせない、充実した内容のイベントだった。弔いという重いテーマを扱いながらも、終了後はみんな晴れやかな顔で雑談し、笑顔で帰っていった。

というわけで、ひとまずご報告まで。参加されたみなさま、準備してくださったみなさま、そして高橋先生、内山先生、ありがとうございました&おつかれさまでした!


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