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「天才」を持って生まれた人間の宿命(団鬼六『真剣師 小池重明』を読んで)

「本を読むと眠くなる」というのを利用して、読書を睡眠導入の儀式に利用している杉原です。

しかしこれがうまくいかないことがある。言うまでもなく、ものすごく面白い本を読んでしまった場合だ。

こうなると、逆に興奮して眠れなくなってしまう。そして久々にこのパターンにはまってしまったのがこの本、『真剣師 小池重明』である。

「真剣」とは要するに賭け将棋であり、「真剣師」とはそれを生業にする棋士のことである。だがこの小説の主人公である小池重明の時代には、もはやそれは生業として成立しなくなっていた。小池重明は、「最後の真剣師」と呼ばれた将棋の天才であり、実在の人物である。

彼の生涯を見ていると、そうそう「波瀾万丈」などという言葉が使えなくなる。世間で言われる「波瀾万丈」のほとんどは、本当の「人生の大波」を知らないままに使われているのではないか。そう思えてくるのである。

著者は彼をこう評する。

「人に嫌われ、人に好かれた人間だった。これほど、主題があって曲がり角だらけの人生を送った人間は珍しい」

もちろん人生は比較されるものではないが、彼の生き方はまるで、自身に火をともし燃焼することでしか生きられないロウソクのようだ。しかし、それが「天才」を持って生まれた人間の宿命だったのかもしれない。

「ひとつの方面に、並み外れた才能をもつ人間は、結局は本人の意志とはかかわりなく、その世界で頭角を現わしていくことになる。しかも、それは本人の幸、不幸とはまるで別の次元である」

と書いたのは、本書の解説をする大沢在昌である。彼は言う。小池重明の人生を「壮絶」にしたのは、「この人の才能を知り、その行く末を見届けたいと願った周囲の人々ではなかったか」と。その意味でも、彼は自身の「天才」に翻弄された人だったと言えるだろう。

小説の中でも、小池自身がそのことを自覚する言葉が登場する。

「その道において報われるかどうかはその人その人のもつ運であって、世の中には立派な仕事をしながら報われない人は大勢いる。人間の生き方というものは報われるか、報われないかに無関係なものだろう」

もちろんこの言葉は、実際には著者である団鬼六の言葉である。彼は淡々と「悲劇的な」彼の人生を描きながら、おそらく彼を肯定したくてしょうがないのではないか。

それは団が小池という人物を肯定しようとしているのだが、それは同時に、団が人間を肯定しようとしているのだと思う。なぜなら多くの人が、小池のことを「愚者」であると認めながら、同時に「人間的」であると認めるであろうはずだからである。

この小説には間違いなく「人間」が描かれている。それは著者である団鬼六と、主人公である小池重明が、人間的な関係によって結ばれていたからにほかならないだろう。そこには、もはや善とか悪とかいう社会的な価値観が入り込む余地はない。だから、この小説は、こう締めくくられている。

「とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった」

小説の中に、武者小路実篤の次の言葉が登場する。

「この道より我を生かす道なし、この道を往く」

「この道」を生きる覚悟を持ちながらも、社会の常識にからめとられて、小さくまとまりそうな自分に嫌気がさしている人は少なくないだろう。そんな人にこそ、ぜひこの小説を読むことをおすすめしたい。


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