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平安から鎌倉時代末期の歯科事情:歯科医療の日本史④

 平安時代中期に「医心方」を編纂した丹波康頼の子孫、丹波冬康が平安末期に天皇の歯科治療で活躍します。鎌倉時代に入ると丹波家から歯科専門医療人が続々と出てくるきっかけでもあります。冬康のエピソードを紹介します。(小野堅太郎)

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 と、その前に典薬頭を引き継ぐことになる丹波家についての由来を説明しておきます。医心方の編纂を行った丹波康頼は、漢人系渡来人である阿知使主(アチノオミ)の子孫です。

 中国大陸では紀元前3世紀末に「秦」が崩壊して、劉邦による「漢」が誕生します。紀元後8年から十数年ほど王莽(オウモウ)による「新」となりますが、劉秀(光武帝)により再び「漢」となります。一般的に再興した漢を「後漢」と呼びます。この後漢の12代皇帝が霊帝ですが、184年の黄巾の乱をきっかけとして後漢は衰退していき、「三国志(魏・呉・蜀)」の時代に流れ込みます。「続日本紀」によると、阿知使主は霊帝の曾孫で289年に多くの他家系を連れて倭国に帰化したようです。280年から「晋」の統一時代で、朝鮮半島の中西部(現在の北朝鮮の南西部)に「帯方郡」という植民地がありました。晋は直ぐに情勢不安定となりますので、阿知使主は危機を感じて海を渡り倭国を訪れたと考えられます。

 阿知使主の子の代から坂上氏となり、天武天皇時代に「八色の姓」の忌寸(いみき)、続いて1つ上級の宿禰(すくね)となります。康頼は「医業に優れる」として民間から典薬寮に勤務することになり、もともと住んでいた土地「丹波国」にちなんで丹波宿禰の姓をもらいます。この間、中国では隋そして唐の支配となり、日本国は交流をしていたわけです。丹波康頼のルーツが、中国大陸にあるため唐の医学書をたくさん入手出来ていた、というのが「医心方」編纂が可能であった理由であろうと思われます。彼以降、典薬寮の頭を代々丹波家が受け継ぐことになります。

 完全なる余談ですが、2006年に亡くなった俳優「丹波哲郎」さんは、この丹波家の家系だそうです。晩年は「大霊界」などでコミカルな一面が話題になりましたが、映画では二枚目名優でした。映画「沈黙」の役が個人的に一番好きです。

 1180年から6年間続いた治承・寿永の乱(源平合戦)の後、鎌倉幕府による武家社会の統治が始まります。当然、朝廷の力は弱くなり、医疾令に基づく典薬寮の運営も弱まってきます(とはいえ、典薬寮は江戸時代末期まで存続します)。国医師もいなくなって官医制度は衰退したようです。

 1194年、鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、幕府の記録「吾妻鏡」に「歯があんまり痛いので京都から典薬頭の丹波頼基に連絡して薬を送ってもらった」とあります。頼基は康頼から8代目です。鎌倉時代では、縮小した典薬寮内で細々と歯科医療が受け継がれていったのでしょう。

 鎌倉時代末期、時の天皇は花園天皇です(在位1308-1318年)。康頼から数十代を経た丹波冬康は、この花園天皇が残した日記「花園院宸記」により歯科治療の足跡を残します。国立国会図書館デジタルコレクションにある花園院宸記(写本)が公開されていますが、歯科エピソードがどこにあるのか確認できませんでした(短縮版?実物は35巻もある)。

 そこで種々の書籍、教科書、Web資料などから調べたのですが、一致しない部分があり、なかなか大変な作業になってしまいました。多少間違いがあるでしょうが、小野が理解した「丹波冬康と花園天皇の歯科エピソード」をまとめてみます。

 花園天皇の次が後醍醐天皇ですから、太平記の舞台となる南北朝時代突入の前です。1308年に12歳で花園天皇は即位しています。身体が弱かったようで、日記には100回以上の病状が書き残されており、歯痛について何回も記載されています。

 15歳の時に初めての歯痛を発症しています。丹波氏と同じく典薬頭の家系であった和気氏の全成が治療に当たります(内容不明)。痛みは3日で治まったものの、3日後に再発するも翌日に消えたようです。

 翌年正月に発熱して歯痛が再々発します。和気全成が再び治療に当たり、針治療を行っています。いずれも1~2月に発症しています。寒い季節であることに加え、平安時代から貴族は正月に豪勢な食事をしていたことがわかっていますので、歯磨き不足が原因かもしれません。また、正月は天皇の儀式もたくさんありますので、体力が下がりやすかったことも関係していると思います。「口熱」と呼ばれている症状で、おそらくヒドイ虫歯に伴って歯茎に炎症が広がり、全身性に発熱したのではないかと思います。「医心方」には「歯の清掃」が歯痛抑制に有効との記述がありますので、針治療に合わせて口腔内清掃をやり、それが炎症を抑えたのではないかと思います。

 また翌年、今度は5月に歯痛が再々々発し、和気全成が薬を調合したようです。

 さらに翌年2月、5度目の歯痛が発症します。今回は顔も腫れあがってしまいました。花園天皇としては3年も同じ歯の痛みに苦しんでいるわけです。そこで和気全成だけでなく、和気仲景と丹波冬康も呼ばれて診察にあたります。丹波冬康は「歯を抜いた方が良い」と提案したようですが、ずっと花園天皇の治療を担当している和気全成と和気仲景の「抜く必要はない」という意見の方が通ったようです。

 ところが、歯痛と顔の腫れは一向におさまりまりません。さすがに花園天皇も和気全成の診断を疑いだしたのでしょう。前に抜歯を提案していた丹波冬康が数か月後に呼ばれて、花園天皇の歯を抜き取ります。抜歯の際、痛みがなかったということから日記に「歯に関しては名医だ!」と書き残されています。

 さて、室町時代に入り、丹波冬康の孫、丹波兼康が「口歯科」専門として一族を率いていくことになります。次回お楽しみに。

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