幸せになろうとしなくたっていい

人生は、幸せに過ごしてなんぼだと思っていた。物事の一つ一つを分析し、批判し、ネガティブに捉えがちな私の認知の偏りは、時に、幸せに生きるべき、という考えとの乖離をもたらし、私を絶望におとしめることさえあった。

私の尊敬する作家に、上橋菜穂子さん、という人類学博士がいる。昨日、ちょっとしたきっかけで、彼女の新作が発売されていることに気がつき一気に読んでしまった。その後、彼女と聖路加の先生との往復書簡も読んで、私はものすごく、救われた気持ちになった。

人は、いつか死ぬ。なのに、なぜ生き続けているのか。

上橋菜穂子さんは、一生を通してこの問題に向き合っているのではないか、という気がする。自分の人生に起きたひとつひとつのことに意味を見出そうとしているように思える。死に向かって生きていく人間の、その儚さに正面から向き合う。それは、簡単なことではないだろう。そして彼女のそのひたむきな姿に私は励まされる。いつもありがとうございます。彼女に直接伝えられればいいのだけれど。

なぜ私が心打たれるのか、それは間違いなく、私も意味を見出そうとする側の人間だからだ。だから、人に「悩んでばかりいないで、幸せになろう」と言われてもそんなに響かない。実はここ2年ぐらい、その軽さに惹かれて、そういう生き方をしている友達と付き合っていたけれど、人の認知の偏りは、そんなに簡単に変えられるものではなく、結局私が学んだのは、自分はこの自分の認知体系と共に生きていかなければならない、ということだった。やはり、自分に嘘はつけない。

私のこの一種の悟りを決定づけたのは、ある物事を忘れるという仕方で消化できない、という気づきだった。幸せになるには、嫌なことをいち早く忘れることが重要な資質だが、私は、忘れることで初めからその物事がなかったように振る舞うことができないのである。ある物事が起こったとき、私がそれに相対する手段は、それを理解しようとすることで、時間とともに忘れることではないのだった。

この場合の理解というのは物事を分析し、それと似たようなケースが他に存在するということを突き止め、その中にある構造的なものを探すということをいう。そして、それがどこにでも存在しうる、という実感を得る。そういうやり方で、私は、自分の人生に起きる出来事を消化しようとしてきたのだと思う。

こうやって考えていると、幸せに生きようとすることは、私今までの人生に対して、すごく不誠実な気さえしてきたのだった。人は、いつか死ぬ。なのに、なぜ生き続けているのか。それを考え続けることが、私にとっての最適解であって、その問いを持ち続けることで、自分に誠実に生きていきたいと思った。そして、そのことは、必ずしもネガティブに捉えるべきことではないということも心にとめておけるようになった。というのも、こうやって物事を捉えることで、私はより多くの人と繋がっていけるからだ。過去の人とも、もしかすると未来の人とも。自分自身の問題から出発しながら、人類という種に共通の問題にアクセスできる。より、多くの人のことを理解しうる。その可能性を開くために、私は考え続ける、という生き方をやめない。



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